自分の仕事を始めた話
「このブログは何のためにあるのか」に書いたとおり、私がこの場所で記事を公開しているのは、自分の経験を使って何か人の役に立つようなことをしたいという動機に基づいています。より正確には、そのようなことが自分にはどこまでできて、どこまで他人にとって意味のある存在になれるのかという、自分自身に対する可能性の追求です。
これは完全に個人的なプロジェクトで、私が今まで生活のためにやってきたどのような仕事とも違うタイプのものです。ここでの感じ方は、会社で働いているときの感覚とは明確に違います。朝からちょっと集中できないなと感じたとき、会社にいるなら昼休みまでの時間を適当にやり過ごせばいいだけで、別に気にも留めません。しかし、今の私はそういう時間をすごくもったいないと感じます。人間の生産性には、その日の気分と体調による波があるので、こうした時間をゼロにすることはできないと理解してはいるのですが、それでも苦痛に感じます。
自分自身に足りない能力や、結果が出ないことに対しては、はっきりと悔しく感じます。時間と体力が有限であるということを、すごくもどかしく感じます。これだけ頑張ったけど、客観的にはまだ1ヶ月分前進しただけだな、と感じたあと、自分に残された何十年かの人生のうちの1ヶ月をこれに対して使ったのだなと実感します。このようなことは、会社の仕事では何も強く感じることはなかったことです。
今までの私にとって、仕事というのは所詮、他人事でしかなかったのだと思います。これは多くの社会人にとってそうでしょう。ビジネスを自分のものだと捉えているのは、おそらく会社の創業者やお店のオーナー、そして個人事業者くらいのものです。仕事で結果を出すためには主体性が大切だとか、主体性を持って取り組んだほうが最終的には自分自身の職業生活の幸せにも繋がるのだ、といったことは事実だと思います。それでも、元々は自分のものでない仕事を自分のものだと心から感じるというのは、かなり難しいことなのではないかと感じます。
人は自分のためにしか動けない
結局のところ、人は自分自身のためにしか本気で動けないのではないか、と感じることがあります。どのような生き物も、自分自身が生存するということが第一なので、これは自然なことです。
社会はお互いをうまく助け合えるように設計されるべきだし、人間にとってやさしさや思いやりといった資質に勝るものはないという考え方には私も同意します。ただ、これも突き詰めれば「私がそのように感じるからだ」「私がそうすべきだと思っているからだ」ということでしかありません。何か意味のある人助けというのも、いつもそのように行われるのでしょう。
自分にとって他人事ではない、「自分事」とも呼ぶべきものがあります。自分の人生を何か意味のあるものにしたいというときにすべきなのは、人生から他人事を減らし、自分事を増やすということだと思います。
よく「会社の歯車に甘んじるな、若者は独立起業せよ!」などというアジテーションを耳にしますね。ビジネスの世界での起業だとかフリーランスでの独立といったことを考えるなら、人には人の適性があるし、時の運も大いに絡むので、一般的に成功率は低いです。なんだかんだと会社に対する文句はありつつも、多くの人は組織人のほうが向いていると思いますし、現実的に幸せを掴もうというのなら、それは不適切な選択では全然ないです。
世の中には、他人の夢や願望を煽ったりすることを商売にしている人がいます。それは複雑で困難な現実に向き合うということを拒否するもので、すごく無責任なことだと思います。騙されるほうもいけませんが、騙すほうが悪いです。
自分事を増やすということに単純な方法はなくて、悩みながらも仕事にちゃんと向き合うとか、家庭をつくるとか、趣味の世界を広げるだとか、そうした地道で長い道を歩むことでしかできないのではないかと思います。仕事で独立するといった話も、場合によっては出てくるかなというだけの話です。単純なひとつの野望だけで人生を構成することはできないので、全体として自分の人生を自分事にしていく、という姿勢が必要なのでしょう。
私はこれからもこうしたテーマについて考え続けるし、これを読んだみなさんにも、何かしら感じるものがあるといいなと思います。頑張っていきましょう。
(付記:この記事は2023年末〜2024年初頃に執筆されて未公開のまま眠っていたものです。シロイブックスの1周年が近くなり、未公開記事の存在をふと思い出したので、ひっそりと公開します)