誘いを待ってる人のほうが多い

ちょっとした心がけで生活が楽しくなることってけっこうあって、「自分から声をかける」というのもそのひとつです。

人に声をかけるのって、勇気の要ることですね。相手が自分のことをどう思っているのかというのは分かりません。もしかしたら相手は自分のことに全然興味がないかもしれなくて、誘いを断られることや、少し困った顔をされることもあると思います。

ただ、それは他の人にとっても同じなんです。他のみんなも、あなた自身が何を考えているのかはわからなくて、自分から声をかけるのは少し勇気が要るよなって思っています。もしあなたが誰かに関心を持っていて、その誰かもあなたにちょっとだけ興味があって、それなのにどちらも行動を起こさないがために何も起こらないとしたら、すごくもったいなくないですか?

「最初から大好き」というのは単なる思い込みや願望の投影である場合が多いので、普通の人間関係はごく薄い状態から始まります。お互い少し興味はあるけど、まだ何も起こっていないし何も知らないという状態が最初にあって、その均衡状態を破る必要があるんです。

「あなたに関心があるので、仲良くしたいです」ってちゃんと伝えてみてください。人付き合いには技術が必要なので、ある程度の慣れは必要ですし、勇気も必要です。それでもやってみましょう。最初の一歩は勇気を出すことです。運が良ければ、あなたはその後何十年も続くかもしれない、大切な関係を得る可能性があります。

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近い話

少し離れた話

恋愛は人間の義務です! と言わんばかりだ

特に若いうちはそうですが、世の中には「恋愛をしなければならない」という圧力が強く存在しています。恋愛はステータスであり、陶酔であり、なければ恥ずかしいものとされています。これはひとつの宗教みたいなものですね。別に誰かを好きじゃなくても、常に誰かを好きであると思い込むことが必要とされます。

私も個人的には、他の誰かと深い関係を結ぶということほど価値のある体験って、この世にあまりないんじゃないかな、とは思っています。人間が成長する上で通過しなければならない重要な仕事として、自己というものをいかに確立して、その上で自己の牢獄からいかに自由になるか、ということがあります。他者と深い関係を結ぶには、まさにこの両方が必要です。自分というものがなければ依存的な関係へ一直線でしょうし、一方で自己にとらわれていては魅力的な人ではあり得ないし、目の前の相手に本当の関心を持つことはできません。パートナーを持つということと人間的な成熟は、多くの場合、並行して進むものだと思います。

それでも、恋愛というのは現代の宗教なので、よくよく見てみればおかしな部分はたくさんあります。たとえば「トキメキ」です。恋愛にトキメキを求めるということに対して私が感じるのは、うーんそれは目の前の人間に対して失礼なんじゃない? ということです。ホルモンの効力でウカレハッピーになりたいというのは、新しいおもちゃを次々と手に入れたいというのと何も変わらなくて、そのうち飽きがきて終わるのは分かり切ってますよね。人間関係に喜びがあって、それを求めるのは普通のことですが、このような恋愛はちょっと軽薄すぎます。本質的には、酔うことと酔いから覚めることを繰り返しているだけなのに、どうしてそこに何か崇高なものがあるって信じたいんでしょう? こういう恋愛は関心が相手ではなく自己に向いているので、ホルモンの効力が切れると同時に、本当は何も一致していなかったんだということに気づいて終わりになることが多いです。

人と何か真剣な関係を築きたいと思うとき、恋愛という様式を通過しなければならないのは難儀なことだなと感じます。追い求める価値のあるものは、たぶん恋愛のその先にあると思うのですが。

でも、恋愛そのものを求め続ける人は、きっと今までもこれからもたくさんいるんでしょうね。私はハンバーグが好きじゃないけど、みんなはハンバーグが好きなんだな、っていうだけの話です。でも、みんな本当にそれでいいのかな〜?

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SNSでバズったときの体験談

※この記事では珍しくちょっと辛辣なことを書いていますが、気楽に読んでくださいね。

いきなり万バズした

私もインターネットで暮らして長いですから、「バズる」という現象は日常的によく目にしていましたが、思いがけず自分が経験したので、そのときの話を書きます。

これはX (Twitter)の @shiroi_ze でのことで、一週間くらい長いこと話題になっていた、マーケットイベントでの食中毒事件という時事ネタについて投稿したものです。食品の管理状況に「これはありえないでしょ」みたいにいろいろと問題が指摘されていて、保健所の指導が入って、厚生労働省が「CLASS 1」という危険性に分類して……というふうに連日どんどんニュースが大きくなっていた中のことです。

私の投稿は「事件を起こした責任はあるにしても、みんな叩きすぎ」みたいな内容で、たまたまトレンドに上がったワードが含まれていたので、バズりに繋がったようです。内容自体は時事ネタなのでここには載せませんが、記録としてリンクを貼っておくとこちらになります。

規模としては、リポスト(リツイート)が約3,300件、いいねが1万件超(大きな数字は表示が勝手に大まかな値になってしまうので、1桁台の正確な数字はわかりません)、インプレッション(閲覧回数)が約395万回、ブックマークが約550件といった程度です。リプライはちょうど100件ついていました。いいねが1万件を超えているので、いわゆる万バズですね。初めて経験しました。

初日の経過

私のX (Twitter)のスマホの通知は、音は出ないけれどロック画面には表示されるという設定にしています。投稿したのが朝で、投稿直後から多少拡散されたようですが、お昼前くらいから本格的にバズり始めたようです。ちなみにこの日は平日の木曜日です(みんな仕事は…? 仕事はどうしたの……??)。

お昼過ぎには、よくバズった人が言う「通知止まらんww」の状態になりました。近くに置いてあるスマホの画面が、通知を表示しては少ししたら画面が切れて、再び通知がついて……というゆっくりした画面の点滅を10秒周期くらいでずっと繰り返していて、不思議な光景でした。ずっとこうだとスマホのバッテリーが激しく減るのではないかと思ったのですけど、意外とそうでもなかったです。

こういうバズを第三者的に見ているとよくわかりますが、SNSでバズった投稿というのは、トンチンカンなコメントで突っかかってくる人がどんどん出てきます。いわゆるクソリプというやつですね。これもお昼過ぎから順調に増えてきました。「ふーん、自分の言葉じゃ何も語れないし自分じゃ何も生み出せない連中がなんか言っとるわ」(シロイの辛辣モードが発動)という感じで見ていたのですが、普通に暮らしてたらいきなり変な人に絡まれるなんてことはめったにないので、こういうクソリプというのを読んでしまうと、さすがに少しは動揺します。

ただ、午後に入ってからはそういうコメントは目に入れないようにして、夕方くらいになると、もう気持ちの上でも完全に無視する感じになって、何も読まずに通知を既読にして消すだけになりました。普段の仲良しのフォロワーさんとのやりとりに支障があったのが少し不便でした。

夜になって、自分が無意識に爪で頭をガリガリしていることに気づきました。これは私が強いストレスを感じたときに起こる癖で、もう何年もこのようなことは起こっていなかったと思うので、気がついたときには驚きました。

この日は友達に「めっちゃバズってるんだけどww ウケるww たすけてww」みたいなメッセージを送ってから寝ました。

翌日以降の経過

夜中はスマホの通知が出ない設定になっていますが、翌朝になっても同じ状況が続いていました。みんないつまで同じ話してるんや……という感じになってきました。ネット上でも繋がっている友人がメールをくれて、暴言が吐かれたりしているということを心配して怒ってくれました。ただ、私はもうこの時点でコメントがついても何も見ていない状態になっているので、特にダメージ等は受けていません。他にも心配や応援の言葉をかけてくれたフォロワーさんが複数いました。

午前中、投稿からちょうど丸一日と少しくらい経ったところでいいねが1万件を超えて、無事万バズになりました。ありがとうございます!(ありがたくはない) この頃、ようやく少しだけ通知の勢いが落ちてきたようで、10秒周期よりは少し長くなったように感じました。夕方になった頃には通知が数分周期くらいにまで落ちて、ようやく収束したのかなという感じになりました。ここでやっと普段のフォロワーさんからの通知が見られるようになりました。

3日目の朝は、起きたときこそ通知が溜まっていましたが、もうそんなに通知が来ることがなくなって、これで終了かなという雰囲気になりました。

インターネット上に存在する妖怪について

ネットの世界では、隙あらば他人を傷つけてやって、その反応を見て楽しんでやろうと考えている妖怪が実際にいます。こういう心ない言葉に傷ついてしまう人もいると思うのですが、本当にいちいち読まないほうがいいです。だいたい、たまたますれ違っただけみたいな顔も知らない相手に対して強い言葉を投げつけるというのは、どう考えてもまともな大人ではないので、こういうのは読むに値しないと思います。画面の向こうにいるのは、誰にでもバーカバーカって言いたいお年頃の小学生男子かなって思っておくのがいいと思います。

特に今回のケースでは、バズった投稿の趣旨は「人を面白がって傷つけるな」ということなので、それに対して何か言いたいという時点でヤバ人間待ったなしです。このことには初日の夜に気づきました。こわ〜〜い!!

たまたまの偶然なのですが、このバズ事件が起こる何日か前に、喫茶店チェーンで店員さんに怒鳴るイカレおばちゃんを目にしていました。怒声っていうのは普通は耳にしないので、離れていてもショックで少し固まります。何か事件に巻き込まれた人が、暴力に対してとっさに抵抗できないという話を聞いたことがありますが、確かにこういうのって、警官みたいに訓練された人間じゃないとすぐに反応できないと思います。

このときはおばちゃんだったのでまだマシですけど、相手が力の強い男性で、店員さんが若い女性だったりしたら、これはもう恐怖でしかないでしょう。接客業などで不特定多数の人が来るっていうのはこういうことなんだよなあ……と感じます。バズ事件が起こったとき、この喫茶店での出来事をふと思い出しました。

ここで誤解すべきでないことがあって、それは世の中の人たちというのは、その大部分が道徳も礼儀も良心もそれなりに持っている普通の人間だということです。ただ、日本の人口は1億人以上いるので、定義の上からして「100人に1人のレベルのあたおか人間」は100万人以上存在するはずです。ネットによって可視化されるのはそういう人間なんです。で、それが集まったらバラエティ豊かなあたおか図鑑ができるのかというと、人が難癖をつけるときのパターンというのはだいたい決まっているので、意外とそうはなりません。ティピカルです。本当に頭からつま先まで面白くない奴らですね。今回実際に寄せられたコメントを見ると、「主語が大きい」みたいな「お前その言い回しを一回使ってみたかっただけだろう……」的なものがあります。

攻撃的なコメントに対しては「通報しました✨ 制服のお兄さんたちがインターホン鳴らすのを震えながら待ってろよ🤭」って返したら少し面白いかなと思ったのですけど、それでまた反応が広がったりしたら面倒だなと思って、やめておきました。

バズった投稿って、発言者の人格から切り離されたひとつのコンテンツになります。まあ、ネットで何かを発信している以上はそうなる覚悟もしておくべきという考え方もありますが、普通の人だったら面と向かってはまず言わないようなことが好き放題に言われるので、けっこうびっくりするようなことになります。有名人とか、めちゃくちゃ人目を引くような美人の人とかは、毎日こういう世界に生きてるのかな……と感じました。これはまともな感覚では生きられない世界だなと思います。

その後の影響

バズによって、フォロワーはそんなに増えませんでした。この騒動のあった3日間で増えたフォロワーは、たぶん20人くらいです。バズってなくても多少のフォロワーの増加はあるので、ほとんど誤差の範囲内のような気がします。台風が過ぎ去ってみたら、特に被害もないし空は晴れてるし、何もなかったみたいだなっていう感じです。

まあほんと、バズっていうのは投稿自体に瞬間的に反応してるだけで、翌日か翌々日くらいになれば誰も覚えてないだろうし(これは変な絡み方をしてくる人もたぶん同じです)、発言者自体に興味を持たれることは特にないんだな〜って思いました。そんな気はしていましたが、バズなんて所詮バズでしかないんだなって思うとちょっと残念なような気もします。そんな中でも多少は発言者に興味を持ってくれる人もいるとは思いますから、何かをネット上で発表している人の場合、知名度目的で割り切ってバズを狙うというのもありなのかもしれません。しかし、少なくとも私の感覚では、ストレスと見返りが釣り合うものではないような気がします。

他人の話として知っていることと実際に自分で経験したことは違うので、私のようにネットで何か活動しようとしている人間としては、勉強になったなという感じです。

長くなりましたが、今回の話は以上です。ストレスもあったので、珍しく辛辣モードになりましたことをお詫び申し上げます。嵐が去ったので、普段のゆるいシロイに戻りたいと思います。

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情報を集めたければ情報を発信する

発想の転換だ!

何か新しいことを始めるとき、「情報を集めたければ情報を発信しろ」という考え方があります。何か特定の技術を学んでスマホアプリを作りたいとか、留学に備えてフランス語の会話と読み書きを身につけたいといったときですね。もっと砕けた話、ラーメンの名店の食べ歩きを本格的にやろうといったことでもいいです。

このようなときは、SNSのアカウントやブログなどを作って「私はこういうことをやりたいので、やったことを書きます!」と宣言してしまうんです。文章が拙くても、内容が不十分でもいいので、とにかく情報発信するということを続けていきます。すると面白いもので、同じ分野に興味のある人が必ず集まってきます。そしてそこで出会える人の多くは、あなたよりもたくさん知識や経験を持っています。

その人は既にその分野の上級者で、あなたの情報そのものを強く求めているわけではないかもしれません。しかし、それでも人は集まってくるんです。人間には仲間を求める気持ちがあり、何か人の役に立ちたい、人を助けたいという気持ちを潜在的に持っています。助けたいという気持ちは、自分の好きなものを好きな人に対しては強く起こりますし、もしその分野がマイナーなものであれば、仲間意識はさらに強力なものになります。そうした人たちは、あなたに惜しみなく情報を与えてくれるようになります。

人は助けたいという気持ちを持っている

私自身の経験で例を挙げてみます。私はアイルランドの伝統音楽で使用されている、コンサーティーナという楽器のアマチュア演奏者です。多くの人は、イギリスの隣にあるアイルランドという国で伝統音楽がすごく盛んなことを知らないでしょうし、コンサーティーナという楽器の名前を聞いたこともないでしょう。本格的な楽器であれば海外からの購入が必須で、何か問題が起これば自分で分解して修理する必要に迫られることがあるにも関わらず、ネット上でかろうじて手に入る情報のほとんどは英語です。

そんな中で、初心者の私を大いに助けてくれたのは、10年どころではない経験ととんでもなく深い知識を持っている上級者の方の存在でした。たまたま私がSNSで発信した情報を拾ってくれて、こちらの存在に興味を持っていただけたのです。元々、アイルランド音楽のコミュニティというのは人と人との繋がりが強いので、直接どこかに集まった上での情報交換や助け合いはよくあることなのですが、ネットでの繋がりがなければ、何かちょっとしたトラブルや疑問が起こるたびに、すぐに的確な情報をいただけるということは起こり得なかったと思います。

どの世界でも、経験者や上級者という人たちのほとんどは、誰かに助けられてそこまで来たのだという自覚を持っています。そうなると自然な流れで、今度は誰かにお返しをしようという気持ちになります。私自身もそうで、もし自分の好きな分野でこれから何かをやろうとしている人が情報発信をしていたら、私は進んで興味を持つし、何か手助けできることがあるならそうするでしょう。

今すぐ始めよう

情報発信を行うことには他にもメリットがあって、それは自分が苦労して何かをやってきたという記録を残すことです。これもいつか、ひとつの懐かしい財産になります。また、やったことを書き表すというのは自分が前進しているという客観的な感触を与えてくれますし、それはさらなるモチベーションにも繋がります。また、「やる」と宣言して、人がそれを見ているという状況を作ることは、挫折の予防にもなります。

せっかくネット全盛の時代に生きているのですから、何かをやりたいのなら、それを発信して、いろいろな人と繋がっていきましょう。きっと楽しくなりますよ。

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近い話

少し離れた話

変化が必要なときほど変化が困難になる

なぜ永遠にお部屋が片付かないのか

世の中には天邪鬼な法則がけっこうあります。「変化が必要なときほど変化が困難になる」というのもそのひとつです。

私たちにとって身近なものである、お部屋の散らかりについて考えてみましょう。理屈で言えば、人が掃除や片付けを行うのは、「汚れたり散らかったりしていることの不快感」が「掃除や片付けを行うことのめんどくささ」が上回ったときです。散らかりについての感じ方は人それぞれで、綺麗好きの人はおそらくこの不快感のしきい値が低く、早い段階で「気持ち悪いからとっととやっちゃおう」という感覚が起こるのでしょう。

困ったことに、人は疲れるといろんな感覚が鈍感になります。疲れ切っているときには、部屋の散らかりなんてどうでもよくなります。そういうときにこそ、片付けてスッキリさせたほうが精神衛生によいはずなのに、疲れれば疲れるほど片付けるということは困難になります。それは単純に片付けるためのエネルギーが不足しているという面もありますが、冷静に考えれば片付けを行うことに難しい仕事を行うことほど集中力が必要とも思えませんから、やはり不快感を「感じにくくなっている」という点が大きいのでしょう。

働くことが限界になるとき

お部屋の綺麗さというのは、快適に暮らす上では大切なことですが、もっと重要なことがあります。たとえば働くということについてです。

世の中にある会社がみんないい会社というわけにはいかないので、過酷な労働環境というのはそれなりに存在します。それでやりがいがあって報酬が高いというのならば、割り切って取り組める人もいますが、そうでない環境も多いでしょう。そうした環境では、人によっては自分の限界を超えて心身に不調をきたすこともあって、転職によって今の環境を抜け出したほうが賢明な場合もあります。

ここで問題になるのは、疲れ切って追い込まれている人には、その状況を冷静に理解することも、それを変えるための行動を起こすこともすごく困難になるということです。真面目な人ほど「もう少しやれるはずだ、もう少し頑張ってみよう」と考えてしまうのですが、限界というのは意外と簡単に来ます。限界というのは、実際にぶっ倒れてしまったという状態を指すこともありますが、その前にひとつのラインがあって、それは「現状を変えるためのエネルギーが残されている」というラインを突破してしまうことです。

知っておき、備えておく

仕事で限界を超えてしまうということに対しては、あなたのことを普段からよく見てくれて、客観的な視点でアドバイスをくれるような友人や家族との関係を築いておく、といった対策が考えられます。自分の視野が狭くなっているということに気づくのが肝心になるので、気持ちを切り替えられる趣味や運動の習慣、休息の習慣をつけておくといったことも大切です。

ただ、大抵のことは口で言うほど簡単ではないものです。これを書いている私自身も、仕事で健康を害したことが何度かあります。そうした経験について、「あのときこのように考えていたら、限界をうまく回避できていただろうか」と考えてみても、そのような自信は正直言ってあまりありません。

防御策があるとすれば、それは「知っておき、備えておく」ということです。無理が来ると自分が動けなくなるということを知っておく。「まだいけるかな」と思ったときに、本当にそうだろうかと警戒する。早めに周囲に相談してみる。相談というほどのことでなくても、雑談の話題に出して、相手の話を聞いてみる。こういうことをしておくと、危険なラインを超えてしまう前に「自分は今ラインを超えそうなのだ」と気づける可能性があります。

部屋が散らかり始めただなんていうことは、別になんでもない話ですよね。でも、それは本当に限界が来ている兆候の場合があります。限界というラインを実際に超えてしまうと、リカバリーはかなり大変な過程になります。早め早めに対処して、自分のことを大切にして生きていけるといいですね。

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