ブラックホールに気をつけろ

ときどき「さみしいおばけ」もしくは「かまっておばけ」とも呼べる人がいます。彼らは急速に接近してきて親密さを求めるので、経験したことのある人なら、少し接した時点で何らかのセンサーが働くはずです。

こうした人たちは無限の愛情と無限の関心を要求していて、決して満足することがありません。あなたが何かエネルギーを注いだとしても、それはすぐに消えてなくなるし、次第にもっともっとと要求されることになります。彼らは自分自身の中にある穴ぼこに関心があって、目の前にいるあなたに関心があるわけではないので、そこで重要なのは、自分の穴を埋めるためにあなたが役に立つかのかどうかということだけです。これは相手を単なる道具もしくはエネルギー源として利用することであって、人間らしい関係というものは何もありません。

人は助け合って生きていくものですが、助け合うということには自分の足で立てることが大前提です。転んだ人に手を貸すことはできますが、自分の足で立つつもりがない人を、誰かが永久に支え続けてあげることはできません。こうした人を支えようとする試みは、通常は徒労に終わります。

虐待を受けた児童を保護する施設の職員は、子どもたちとの信頼関係を築くことに大変な努力と技術を必要とすると聞いたことがあります。おそらく「おばけ」たちの過去にも何か事情があって、これは自己責任論で簡単に切り捨てていい問題ではないのでしょう。

ただ、私たち普通の人間にはやはり「おばけ」たちと無制限に付き合うことはできませんし、一線を引いて付き合うということが必要になるのではないかなと思います。

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小鳥と暮らす

今年から1羽の文鳥と一緒に暮らしています。「大空を自由に飛べるはずの小鳥をケージに入れて飼うなんてかわいそう」という考え方があるので、それについて思うことを少し書きます。

まず、自然界というのは基本的に厳しい環境です。人間は科学と文明の力を使って、食料や公衆衛生の確保を高いレベルで行なっているので、現代人には「自然はやさしいものだ」という誤解が生まれています。しかし、自然界というのは適応できない者からあっさり死んでいく世界です。これは厳しいというよりは、そもそも「やさしい」とか「厳しい」という基準を持ち合わせていない、ただそういう物質的な世界が存在しているというだけの話です。

小鳥というのは特別外敵に強い生き物ではありません。他の生き物と同じように、彼らは安全な場所や食べるものを常に探す必要があります。自然界において、生き物はまさに「生きる」ということそのものにエネルギーを費やします。

人間の文明がここまで発展したのは、一部の人間が余暇を獲得したからです。過去に存在した奴隷制度は、現代の倫理からすれば誤ったものですが、古代ギリシアの例のように、それは人間にとって何か価値のあるものも生み出しました。朝早くから夜遅くまで働き詰めの人間が、何か人間らしい幸せを得るというのは難しいことです。

これはおそらく動物にとっても同じです。人間の家族の一員として室内で暮らす小型犬は、安全で快適な生活の中で、人間との愛情ある交流を得ることができます。これは野生の生き物には起こり得ないことです。もしかしたら犬にとっては、散歩が不十分で退屈していたり運動不足になるといったことは発生するかもしれませんが、基本的には野良と比べればずっと「よい暮らし」ができているはずです。

室内で暮らす小鳥についても、同じことが言えます。鳥は人間とは異なるとはいえ、知性も感情もある生き物です。私たちは彼らに安全な環境を与えて、同じ時間を過ごし、部屋の中で一緒に遊ぶことができます。これは人間にとっての楽しみでもありますが、同時に鳥に対しても、自然界の生存競争の中では得られないはずの幸せを与えることにはならないでしょうか?

ただ、以上のようなことを理解しているとしても、小鳥を部屋の中で飼うというのは、確かに人間のエゴだと認識している必要はあると思います。小鳥と暮らすには、健康管理や怪我の危険を避けるために、それなりにしっかりとした知識を持ち、注意と労力を払うことが必要です。自分の家に小鳥をお迎えする人間は、自分が命を預かっているのだという認識を持つべきです。

たとえば、人間の不注意によって部屋の窓が開いたままになっていて、小鳥が外に飛んでいってしまって行方不明になるということがあります。これはロストと呼ばれる事故で、ロストした小鳥は発見が難しいどころか、外敵の存在や未知の環境に突然放り出されたストレスにより、生存すること自体が難しくなります。

ペットと人間を比べることは適切でないかもしれませんが、責任と同時に大きな喜びが存在するというのは、人の子育てに似ています。とはいえ、子育てと比べれば、小鳥と暮らすことにかかるコストや労力というのはわずかなものです。ある程度の常識と愛情があれば、あとは暮らしながら学んでいけます。

もし小鳥をお迎えしてみたいという人がいれば、どんな道具や環境が必要でどこのお店で取り扱っているかなど、どうぞ前向きに具体的なことを調べてみてください。きっと素敵な世界が待っているはずです。

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結局めちゃくちゃがんばるしかない

「アーティストやデザイナーにとって、個性というのは努力の末に獲得すべき目標であるはずなのに、何故か人には最初から個性があると思っている人がいる」という話を聞いたことがあります。これは確かにそうですね。

個性を獲得するのに手っ取り早い方法というのはなくて、どんな分野でも「めちゃくちゃインプットして、めちゃくちゃ考えて、めちゃくちゃアウトプットする」というのがおそらく唯一の方法です。

「そんなにめちゃくちゃがんばれないよ〜」という声が聞こえてきそうですね。確かに、モチベーションを維持するには無理なく継続できる程度にしたほうがいいという面もあって、人には人のペースと限界があるのは事実です。ただ、一方で多少の無理をしないと突き破れない壁みたいなものもある気がしていて、結局それはめちゃくちゃがんばるということでしかなんとかならない気がします。

あなたがめちゃくちゃがんばれるかどうかというのは、あなたの関心が本物であるかどうかにかかっています。人から評価されたいという思いは、クリエイターにとってひとつの原動力になるかもしれませんが、あなたを支えるいちばん大きな中心的な柱にはなりません。あなたが絵を描くなら、その関心は絵を描いているあなたに対する他人の目ではなくて、絵画の表現そのものに向いている必要があります。そういうものが好きという気持ちが、本当に心の中にある必要があります。

せっかく生きてるんですから、何か人にできないようなことをしたり、人とは違った特別な存在になりたいですよね。がんばるということは大変ですが、何か本当に自分のやりたいことをやっていたら、そこには楽しいという感覚もあるはずです。楽しいことをやっていて、欲しいものも得られるだなんて、すごくハッピーな話ですよね。

人は人生で苦労すべきだなんていうのは大嘘なので、何か楽しんでがんばれることを探すというか、そういうところを目指したほうがいいんじゃないかなと思います。

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継続は力なり(やり方が正しい場合に限る)

会社組織でときどき起こることとして、営業畑と技術畑の分断というのがあります。技術の人は「品質を上げて、いいものを作れば売れるはずだ」と考えますが、営業の人は「俺たちが苦労して売り込んでるからこそ売れるんじゃないか」と考えるんですね。

私も技術畑の人間なのでよくわかるのですが、技術の人は物事をむやみに飾り立てるのを嫌う傾向があって、売り込みというのもそうした「本質的でないこと」と理解されがちです。ただ、これはちょっとビジネスという視点からはよろしくないです。どんなにいいプロダクトでも、人に知ってもらわないことには使ってもらうことはできません。空っぽな中身でバズ狙いを繰り返すインフルエンサーみたいなのも考えものなので、実態が伴っているというのは確かに大切なんですけど、泥くさい営業を軽く見てしまうというのはよくない判断です。

音楽の世界でも、小説や映画の世界でも、「商業的だ」というのは褒め言葉ではないですよね。売れるだとかウケるだとかいうことを狙うのはアーティストらしからぬ姿勢で、もっと真摯に自分の表現と向き合え、というわけです。しかしこの考え方は、独りよがりであるということと紙一重です。成功しているアーティストは、いつでも自分自身の持つ個性や強みと、お客さんが求めているものを冷静に理解していて、両者の接点を探してすり合わせるという努力を行なっているはずです。譲れない部分は譲らないかもしれませんが、広く受け入れてもらえるように自分の姿を調整するということは常に行なっているはずです。

方向性を間違えた努力というのはもったいないものです。自分らしさを磨くことは大切ですが、人に理解してもらえるように努力し続けるということも同じように大切です。極端な立場に陥ることなく、この両方の追求を行なっていくことが、結果を出すためには必要なのではないかと思います。

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前向きに生きられないと自分がつらい

絶望と諦めが賢いと思ってるやつがいるな?

ポジティブ思考というものについて聞かされたとき、「言われて簡単にできるなら苦労しないって!」と思う人は多いと思います。人生が苦しいというのは基本的な事実なので、いつでもポジティブでいるというのは不自然だし、明るいことや楽しいことにだけ価値があるのかというとそんなことはないです。

ただ、暗くて希望がないことが人生の真理かというと、それは違うと思うんですよね。ある種の哲学者や文筆家といった人たちはすごく頭がよくて、人生の暗い面を徹底的に見つめて、それを何か崇高な(ように見える)理論体系や文学的表現にまとめます。でも、彼らは哲学や文学は現実との接点を持っていないので、同じように何か崇高な(ように見える)哲学的信念に逃げ込みたい人を除けば、あまり他の人の役には立ちません。

何かを差し出されたときに「そんなのつまらない」とか「意味ないじゃん」っていうのは、子どもでも言えることです。人生に何か暗いものがあって、困難なものがあって、それに打ち負けて、目を背けて、自分の中に閉じこもる。それって人間の敗北じゃない? と私は思うんですよね。

負けない意志を持つ

少しでも想像力のある人なら、引きこもりの人を見て「働かなくていいし寝放題で遊び放題で羨ましいな」なんて思わないでしょう。彼らだって社会の中で頑張れるものなら頑張りたいし、人の役に立って感謝されるような自分でありたいと思っているはずです。いや、自分は断固として人付き合いをしたくないんだ! というタイプの人もいるかもしれませんが、それでも引きこもっている自分が「理想の自分」なのだと思っているようなことはまずないと思います。

人生を楽しんでいる人を見て「単純なやつらだ!」と思うのは、まずい考え方です。現実には人間は生まれも育ちも不公平にできていますから、環境に恵まれている人というのは確かにいます。ただ、人には人の悩みがあるはずなので、まったく能天気に生きている人というのはあまりいないはずです。

いつも前向きで明るく振る舞っている人は、おそらくそうするように努力しています。これはかなり難しいことだし、尊いことだと思います。人間がいつでも前向きで明るいはずがないからです。そこには、自分の中に何か暗いものがあることを理解して、それを認めた上で、それに負けてやらないぞという決心があります。

前向きに生きられないと自分がつらくなります。前向きで明るいというのは、人として軽薄なことではなく、むしろ真剣なものです。それは感情というよりは、意志的な行為です。暗い気持ちに囚われたときは、そこに重要性を見出さないでください。それは乗り越えられるべきものなのです。

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