ポエムから脱出する

ポエムとは何か

ある種の文章を「ポエム」と呼ぶことがあります。これは10代の頃に人生の苦悩を書き綴った文章とか、真夜中に好きな人の携帯に送ったメッセージとかに現れることがあって、何年かあとに冷静になって見返すとすごく恥ずかしくなるような種類のものです。ポエムを書くのは、何も恋する10代だけに限らず、大人になってもSNSなどにポエムを書く人はそれなりの割合で存在しています。

ポエムの中心にあるのは自意識です。ポエムにおいて、関心の対象は常に自分自身に置かれています。明言こそしないにしろ、自分の存在はすごく重要で、個性的で、唯一無二のものなんだという前提があります。ただ、世界には無数の人間がいて、あなただけが特別な存在ということは実際にはないので、自意識は現実の世界を生きる上では摩擦の要因になります。

この取り扱いの難しい自意識をうまく乗りこなしている人たちとして、作家やミュージシャンといった表現の分野で活躍する人たちがいます。はっきりとした個性を持ったアーティストは、おそらく元からかなり強い自意識を持っているタイプの人たちのはずです。しかし、自意識が前面に出た表現は必ず凡庸でつまらないものになる性質があるので、そこには創作表現に対する厳しい目、自分を突き放した客観的な目が必要になります。表現においては、確固とした自分を持ちながら、同時に自分自身を突き放して、自分というものにまったく頓着しないという姿勢が求められます。

世界に目を向ける

個性というものを考えるとき、よい例は写真家です。写真は外の世界を写すものであって、カメラやレンズといった機材が特別優れたものであったとしても、それは作品の価値に対して重要な要素ではありません。写真を美しいと思わせるものは、あくまで被写体にあります。写真の面白さは被写体の面白さです。ただ、それを写すという行為の中にも写真家の技術と感性は存在していて、最終的な作品には「その人の写り」というものが現れてきます。写真なんて誰が撮っても同じだ、ということは絶対になく、そこには個性というものが確かに存在しています。

自意識の罠というのは、ここで自分の姿ばかりを写して興味深い被写体を探すということを忘れてしまうことや、カメラ自体の収集と自慢に没頭してそもそも写真を撮らなくなってしまう、といったことにあります。自意識の中に本質的に面白いものは何もなく、面白いものがあるとしたら、それは常に世界の側にあります。

自意識の罠を抜けることは、特に表現や創作といったものに関わらない人にとっても重要です。自意識に集中することは、世界を見ないということであり、映画館に行って映画を見ないようなものだからです。そのようなことを続けるなら、人生は特に面白いものでもないし、大した意味を持たなくなります。自意識は常に、自由に生きることを妨げます。あなたがあなた自身にとらわれているときには、逆説的ですが、あなたらしいということは何もなくなります。

外の世界を見て、外の世界で何かをしているときにだけ、人は他人にとって本当に興味深い存在や、特別な存在になることができます。私たちは社会的に子どもから大人になることが必要であるように、心の中においても、ポエムから脱出するということが必要です。

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ウワアーッ下書きが無限に溜まっていくぜーッ!

Twitterはすごい発明だった

今は極悪超人のイーロン・マスクによってめちゃくちゃにされてしまいましたが(現在進行形でめちゃくちゃにされていますが)、Twitterというサービスは本当にすごい発明だったと思います。ポイントは発言を140文字に制限するというアイデアです。

少し調べてみると、これは創業者のジャック・ドーシー氏が意識的にシンプルなサービスを狙って設計したのだそうです。「機能を増やすには技術が要るが、機能を減らすには哲学が要る」という格言に表れているとおり、余計なものを付け加えずに本質を維持するというのには哲学が要ります。

140文字という制限の上では、発言に含まれる内容はかなり絞られるので、発言に「内容をよく考えてまとめる」という行為がほとんど必要ありません。そうなると手軽に発言できるわけで、手軽に発言できるようになるとコミュニティは活発化します。これがTwitterの普及のいちばんの要因だったと思います。「よく考えてまとめる」ということはすごくめんどくさいことですから、そういうことをわざわざ行いたいという人はあまりいないんです。

めんどくさいほうが楽しい

私は今ここで「すごく長くはないけど、そこそこまとまった長さの記事が中心のブログ」を書いています。書きたいことが短時間であっさり文章にまとまってくれるということはめったにないので、だいたい常に20〜30記事くらいの書きかけの記事が下書きに溜まっています。思いつきで書き出すことはいくらでもできますが、苦労して形を整えて仕上げるということをしなければ、書きかけの記事は溜まる一方です。

文章をまとめるというのは、すごくめんどくさいことです。「自分らしい何かを表現したい」という人がたくさんいても、実際に表現する人がそれほど多いわけではないというのは、あらゆる表現という活動に必ずついてくる、このめんどくささというものによると思います。多くの人は、このめんどくささに負けてしまいます。

多くの趣味は「めんどくさいことをわざわざ自分でやる」という要素を含んでいます。だから家具屋で売っているようなものもDIYで作るし、キャンプに行けば便利な家電製品は使わないし、塗装済みのプラモデルよりも自分で塗ったほうが楽しいということが発生します。めんどくささを克服できるかというのは、人生の中にやりがいを感じられる何かを持てるかということとほぼ同義です。

「お菓子をただ食べることが趣味です」ということはあまり言わないように、めんどくささが含まれない行為はあまり楽しくなりません。お菓子だってTwitterだっていいものなのは確かですが、目の前のことをもっと楽しくするために、たまには重い腰を上げてみることが必要なんじゃないかなと思いますね。

イーロンにおかれましては、せっかく名前がマスクなので、Xの文字をモチーフにした覆面を被った悪役レスラーとして登場してほしいなと思います。こっぴどくやられてほしいです。

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愚痴ったほうがいいし、愚痴らないほうがいい

別になんでもない話なのですが、2023年9月から運用しているシロイのアカウント @shiroi_ze では、ほぼ毎日おはようとおやすみの投稿をしています。なるべく元気に短く挨拶するだけです。

シロイのアカウントで心がけていることがあって、それは気分が晴れないときであってもネガティブな気持ちを垂れ流しにしないということです。以前使っていたアカウントでは、不安だとか辛いだとかいうことは「感じるままに」発言していたのですが、それはやめました。元々はこのブログをたくさんの人に読んでほしいという気持ちで始めたアカウントなので、あまり暗い雰囲気にならないほうがいいよなと思ったからです。

私は元々、性格が明るいほうでは全然ないです。そして、思ったことや感じたことはなるべく正直に言ったほうがいいと思っています。ただ、最近考え方を変えた部分があって、それは「あれ? もしかしてネガティブなことってあんまり口にしないほうがいいのか?」っていうことです。

普通の会話であまりネガティブなことを言わないというのは、一種のマナーです。相手も「何か言ってあげなきゃ」と思って困りますから。でも匿名のSNSっていうのは、読みたい人しか読まないし、読みたくなければフォローを外せばいいというタイプのものなので、いわゆる愚痴アカみたいなものが存在しているのは全然構わないと思います。それで気持ちが整理できて、現実の生活がうまくいくのなら、そのほうがいいです。

しかし、愚痴っていうのは自分が引っ張られるんです。辛いときに辛い辛いって言い続けていると、本当に辛いのが続きます。そしてネガティブなことを言うのを習慣にしていると、自分が引っ張られているという事実にすら気がつかなくなります。実際、私もアカウントを切り替えるまで、自分が自分自身のネガティブな言葉に引っ張られているという自覚はありませんでした。そういうことを言わなくなって、初めて気づいたんです。

これは無理して明るく振る舞うとか、キャラを作るということとは違います。「人と話すときは、お互いが気分よくいるために丁寧な言葉を使おう」みたいなもので、それは自分を偽るということではないんです。少し気をつけて自分の背筋を伸ばして、なるべく自分を気分のいいほうに持っていくということです。

「愚痴や悪口を言うと運気が逃げる」みたいな言い方をすることがありますよね。私はスピリチュアルめいた考え方って好きではないのですが(あれはフワフワしすぎです)、これは運気っていう言葉がアレなだけで、言おうとしていることは正しいと思います。暗い言葉を使っていると自分が暗くなるっていうのは本当です。逆に明るい言葉を普段から使っていたほうが、自分も周りも明るくなりやすいです。

感情というのは否定すべきものではないので、感じたことを感じるままにさせておくのはいいことです。ただ、それをなんでも口に出すような習慣は、できればやめておいたほうがいいんじゃないかなって思います。

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就活なんて茶番ですよ

「大学での専攻と志望している分野が異なるのは何故ですか?」

「知らねーよ、お前は人事学部採用学科を卒業したのかよ」

出典不明

私は若い頃ってけっこうバカだったので、「弊社が第一志望ですか?」という質問に「いえ、第二志望です!」と元気に答えてしまって激詰めされた経験があります。世の中では「嘘をついてはいけない」っていうのは嘘なんです。大人は嘘つきです。嘘つき! お前ら全員嘘つきだ!!

これと同じときの話で、少し選考が進んだ時点だったので社長が出てきて、この社長が全然授業を受ける気のないヤンキーみたいなズルっとした姿勢でパイプ椅子に座ったことを覚えています。これは普通のビジネスの場での礼儀という観点で見るとかなりあり得ない状況で、さすがに当時のバカだった私でも学生や若者をナメてる人の下で働きたいとは思わなかったですから、そのまま選考は辞退しました。

たぶんもうみんな気づいていると思いますが、就活というのは茶番です。これは有名企業ばかりに応募を集中してしまう学生の側にも多少の問題はあるのですが、若いうちは世の中の会社のことや産業の仕組みなんてほとんど知らないし、ある程度は仕方がないことです。日本は解雇規制が強いという背景もあって、ほんの数回の面接やペーパーテストでこの先ずっと会社に居座るかもしれない人間のポテンシャルや人間性を見極めるというのは、企業にとって間違いなく難易度の高い仕事です。だから人事の人も苦労しているとは思います。

でも、中途採用者の面接となるとここまで茶番感はないんですよね。けっこう現実に基づいて淡々と選考が行われているような印象があります。となると、あれは一回しかない新卒カードを手に真剣に空回りする無数の学生たちと、内定辞退に怯えながら学生たちの誇大アピールを吟味し続ける人事軍団との相互作用によって発生しているのでしょうか? 何故シューカツという失敗した発酵食品のような文化が誕生してしまったのか? よくわかりません。

将来にわたってどこでどのような仕事をするのかというのは、明らかに簡単に決められることではないので、これは苦労するでしょうし、人生において必要な苦労でもあります。ただ、それは自分の職業人生について真剣に考えるべきというだけであって、茶番を真剣に受け取るべきという意味とは違います。まあ、私はもういい大人になって離れた場所から見ているので、言うは易しというやつで、現実に悩んでいる学生はそこまではっきり割り切れないですよね。本当に大変だと思います。

そもそも初めてやることを上手にこなせる人というのは存在しない上に、学生たちは「一回失敗したらアウト」という強いプレッシャーを抱えています。うーんでも、アウトなんてことはないですよ。人は誰でもたくさん失敗しながら生きているもので、社会はそこまで残酷ではないです。

これを読んでいる人に就活中の大学生がいたら、どうか肩の力を抜いて就活というものに向かってほしいなと思います。頑張ってたらなんとかなりますから、そんなに心配しないでください。

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完全に安定したけりゃ死ぬしかない

本当に安定したいの?

人間にとって、安定した安全な場所にいたい、という欲求は案外強いものです。ただ、大抵の物事には両面性があって、良いことずくめなことというのはこの世にはあまりありません。安定というものの裏面は何かというと、それは可能性の消滅です。

身近な例を挙げれば、誰かと結婚するということは、他の誰かと正式なパートナーになる可能性を放棄することを意味しています。まあ、離婚して再婚する人もいますが、基本的にはそういうことなのです。完璧な人間はどこにもおらず、人生はいつでも未知でぶっつけ本番なので、完全に理想どおりに物事が進むということはまずありません。この人に決める、という決断をしたなら、あとから「やっぱり他の人が……」と言うことはできません。そこで、一歩踏み出すまさにそのときや、数年後に結婚生活が目新しいものでなくなったとき、「本当にこの人でよかったんだろうか」といった悩みが出てくることがあります。

また、仕事をするというのもそうです。何か人の役に立つ仕事をしようと思ったら、地道な積み重ねということはほぼ必須で、年単位や十年単位といったスパンで何かに打ち込む必要があります。当然、人の持っている時間とエネルギーには限りがあるので、あれにも全力だがこれにも全力だ、という状態はあり得ません。自分が深く進む専門分野を決めたら、他の分野に深く進むことはできません。何かになるということは、他の何かになる可能性を捨てることでしか実現できないのです。

もしもこの先、あなたが安定を得たということがあるなら、それは必ず、他の何かの可能性を捨てたという状態のあとにあるはずです。

いつだってまだ若い

若いうちというのはまだ自分が定まっていないので、いつでも漠然とした不安がそばにあります。それを裏返せば、あなたの中には無数の可能性があるということです。年配の人から若い人に対して何かが語られるとき、それはほとんどいつでも未来の可能性について触れられています。でも、学校の行事で偉い人が壇上からそれを話したとき、あなたはこれといって特に感銘を受けなかったでしょう。それは私たちが普段、空気中に酸素があるという事実に感謝しないのと同じです。若いあなたの周りにはそれが当たり前に存在していて、あなたはまだそれを失ったことがないので、その大切さを実感することができないのです。

おじさんが10代や20代の人たちを見て「若いなあ」と言うとき、そこに見ているのは、自らが失った可能性です。そのおじさんはそれなりに立派に働いていて、奥さんと子どもがいて、もう若い頃のように身を切るような将来の不安に苛まれることはありません。若者が「その辺にいるおじさん」をかっこいいと思うことはまずないと思いますが、こうして社会でそこそこ平凡でそこそこきちんとやっているおじさんというのは、実を言うとかなり優秀ですし、相当努力しています。そしてその安定の裏には、選ばなかった無数の人生が存在していて、人はそうして失ってしまった可能性について、時折懐かしさと若干の寂しさを持って思い返すのです。

たまに大学生になったくらいで「もう若くないし〜」なんて言ってる人がいますね。なーに言ってんだ君なんてまだ赤ちゃんだろ、と思いますが、こうしたことは20代でも30代でも感じがちです。もう若くない。本当ですか? 既に精神的に死んでしまったということを認めるんでしょうか? 本気で言っていますか?

世界は変化して、人間は成長するというのが普通なので、人の心が固定されたポイントで安定するということは絶対にないです。人は安定を求めますが、それは現実が苦しいから酒を飲んで酔っ払っていたいという欲求と同じです。それは気の迷いのようなもので、本当に目指すべき場所はそこじゃないんです。安定というのは、本当は理想的な状態でも何でもありません。

安定を目指さない

自分にしっかりした自信を持つとか、安心できる相手や場所を見つけるというのは大切なことです。精神的に混乱していないという意味での安定した心を持つことは確かに大切です。人は生活していかなければならないので、経済的な安定だってもちろん必要です。

ただ、安定というのはゴールではないのです。あなたが不変のものになるのは、あなたが死んだときだけです。それは人生の最後に必ず存在するという意味ではゴールですが、目指すべきものという意味でのゴールではありません。不安は避けるべきものではなく、向き合うべきものです。可能性があるときには、あなたは必ず不安であるはずです。

不安でなかったら、あなたは生きていないのです。

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