客観的な言葉って、そこまで人の心を打たない気がする。
何かを分析して、もっともらしい理論を立てて、そうして出来上がった概念上の冷たい成果物に、私たちは何か意味を感じるだろうか。私たちは本当は、もっと血の通った言葉を聞きたいのではないかと思う。その人は本当は何を考えて、何を感じたのだろう。何に苦しんで、最後にどこに行き着いたのだろう。
批評を恐れて、うまく体裁を整えた言葉の中に、あなたが本当に言いたかったことは残っているのだろうか。
重要なのはあなたがどう感じたかであって、それを他者に伝えられないのなら、あなたが何かを言ったところで、いったい何の意味があるというのか。
🐟 🐟 🐟
ここで「自分はこうだったのだから、君も同じであるはずだ」と言うのなら、それは明確な間違いだ。それはその人にとって正しかったというだけだから。
それでも、別の状況に置かれた別の人が、その人の偽りのない言葉から、大切な何かを受け取ることはできるのではないかと思う。
事実に反して適当なことを言っていいわけではないので、そこは「主観性と客観性には、それぞれ適切な持ち場がある」ということなのだと思う。科学や工業の世界だったら、もちろん客観性のほうが大事だ。
でも、人間にとって意味のあることは、その人の主観の中にしかない。それがなかったら、全部空っぽだ。何の意味もない。あなたがすることも、あなたが言うことも。