人間嫌いの人なんて本当にいるのかな?

体育への苦手意識の話

私ははっきりと断言できるくらい人付き合いが苦手で、可能な限りひとりで静かに過ごしたいと思ってる人間です。そしてそこそこ長く生きてきて、これは間違いないと感じるようになったことなのですが、私のような人間にとっても、生きるということの最も深い喜びは人間関係の中にあります。

小学校の頃に体育が苦手だった人はよくわかると思いますが、ドッジボールでもサッカーでも、人は自分が上手にできない競技を好きになることはできません。実際にそれに打ち込んでいる人が「トップレベルに行けるほどの才能はないかもしれない」「自分は本当に心からこれが好きなのだろうか」みたいに悩むことはあるかもしれませんが、やってる時点でそれは好きっていうことですよ。やりたくなかったら5分でもやりません。

スポーツと同じく、人付き合いにはスキルが必要です。長い時間をかけて、失敗したり悔しい思いをしながら、経験を積んで上手になっていくという点も同じです。

体育やスポーツに苦手意識を持っている人はそれなりにいますよね。特に学校で行うのは集団競技であることが多いので、そこでうまく立ち回ることができなくて、スポーツ自体を嫌いになってしまうということはよくある話だと思います。人間関係とスポーツを、スキルを要する活動という点で似ていると考えたとき、実は「人間嫌い」というのも「スポーツ嫌い」と同じ構造があるのではないかということに気づきました。

身体を動かすというのは、本来は気分がいいことのはずです。スポーツ嫌いの人は、本来であれば気持ちよく楽しめたかもしれない運動に対して、体育という状況設定によって苦手意識を植え付けられてしまった人です。同様に、人間嫌いというのは本当に人間そのものが嫌いなのではなくて、たまたま成長の過程で、周りの人たちとうまく付き合うということに苦手意識を植え付けられてしまっただけと言うことができるのではないでしょうか?

愛情なしに生きていける人間がいるもんか

他人からの愛情や関心を必要としていない人間なんていないはずです。

人間嫌いという自己認識を固定化してしまうと、人生で得られるものに対して甚大な影響があると思います。それは人間関係そのものの単純な喜びでもそうですし、生きていて面白いことというのは大抵の場合は他人が運んできてくれるものなので、人間関係の欠乏は、自分の外部にある未知の世界に出会うということを大幅に減らします。

未知の世界というのは、自分の内面にもあります。生きるということは成長の過程で、これは自分の中に眠っている可能性を次々と発掘していくということです。他人と向き合うということは、自分と向き合うということでもあるので、勇気を持って他人と向き合うということをしないのなら、あなたの可能性は眠らされたままになります。

「自分にはそんなものは必要ないんだ」というのは、イソップ寓話のすっぱい葡萄の話と同じです。本当にそんな冷たい世界で生きていきたい人がいるようには、私には思えません。

どのようなスキルについてもそうですが、やったことは伸びるし、やらなければ伸びません。人付き合いがどれだけ困難なことであったとしても、やはりそれは向き合うべきものなのだと思います。それは何よりも、自分自身のためです。

いじけて後ろを向き続けていても、いつか誰かがそこから救ってくれるなんてことはないんです。外の世界に向かって歩き出しください。あなたを救えるのはあなただけです。

(付記:この記事は2023年末〜2024年初頃に執筆されて未公開のまま眠っていたものです。シロイブックスの1周年が近くなり、未公開記事の存在をふと思い出したので、ひっそりと公開します)

今読み返すと、後日noteに書いて人気のあった記事「人を愛することに、感情の強さはあまり関係がない (2024.1.6)」の原型になっている気がする…)