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移転のお知らせ

「シロイの連想日記」にアクセスいただきありがとうございます。

このブログは2023年9月〜2024年1月にかけて集中的に更新されていました。また、2021年以前のブログリニューアル前の記事も残っているので、検索によってそこから当ブログを見つけていただいた方もいると思います。

さて、私は現在、メインとなる活動を出版レーベル「シロイブックス」の運営と、noteの執筆に移しています。

そのため、厳密にはブログ移転とは異なりますが、このブログ「シロイの連想日記」の更新は停止する形となっています。徐々に軸足を移していったので、はっきりと更新停止とは書いていませんでしたが、今ご覧いただいているこの記事にて改めて告知させていただくことにしました。

最新の活動状況については以下のnoteにまとめており、この記事は随時更新しています。

「シロイの連想日記」を読んでいただき、ありがとうございました。今後のシロイの執筆活動についても、どうぞよろしくお願いいたします。

2024年11月追記

このブログでの活動を停止して、1年近くが経とうとしています。当時執筆して未公開のままとなっていた記事がいくつかありましたので、せっかくなのでそれも公開することにしました。

これらの記事については、2024年11月の月別アーカイブからどうぞ。

人間嫌いの人なんて本当にいるのかな?

体育への苦手意識の話

私ははっきりと断言できるくらい人付き合いが苦手で、可能な限りひとりで静かに過ごしたいと思ってる人間です。そしてそこそこ長く生きてきて、これは間違いないと感じるようになったことなのですが、私のような人間にとっても、生きるということの最も深い喜びは人間関係の中にあります。

小学校の頃に体育が苦手だった人はよくわかると思いますが、ドッジボールでもサッカーでも、人は自分が上手にできない競技を好きになることはできません。実際にそれに打ち込んでいる人が「トップレベルに行けるほどの才能はないかもしれない」「自分は本当に心からこれが好きなのだろうか」みたいに悩むことはあるかもしれませんが、やってる時点でそれは好きっていうことですよ。やりたくなかったら5分でもやりません。

スポーツと同じく、人付き合いにはスキルが必要です。長い時間をかけて、失敗したり悔しい思いをしながら、経験を積んで上手になっていくという点も同じです。

体育やスポーツに苦手意識を持っている人はそれなりにいますよね。特に学校で行うのは集団競技であることが多いので、そこでうまく立ち回ることができなくて、スポーツ自体を嫌いになってしまうということはよくある話だと思います。人間関係とスポーツを、スキルを要する活動という点で似ていると考えたとき、実は「人間嫌い」というのも「スポーツ嫌い」と同じ構造があるのではないかということに気づきました。

身体を動かすというのは、本来は気分がいいことのはずです。スポーツ嫌いの人は、本来であれば気持ちよく楽しめたかもしれない運動に対して、体育という状況設定によって苦手意識を植え付けられてしまった人です。同様に、人間嫌いというのは本当に人間そのものが嫌いなのではなくて、たまたま成長の過程で、周りの人たちとうまく付き合うということに苦手意識を植え付けられてしまっただけと言うことができるのではないでしょうか?

愛情なしに生きていける人間がいるもんか

他人からの愛情や関心を必要としていない人間なんていないはずです。

人間嫌いという自己認識を固定化してしまうと、人生で得られるものに対して甚大な影響があると思います。それは人間関係そのものの単純な喜びでもそうですし、生きていて面白いことというのは大抵の場合は他人が運んできてくれるものなので、人間関係の欠乏は、自分の外部にある未知の世界に出会うということを大幅に減らします。

未知の世界というのは、自分の内面にもあります。生きるということは成長の過程で、これは自分の中に眠っている可能性を次々と発掘していくということです。他人と向き合うということは、自分と向き合うということでもあるので、勇気を持って他人と向き合うということをしないのなら、あなたの可能性は眠らされたままになります。

「自分にはそんなものは必要ないんだ」というのは、イソップ寓話のすっぱい葡萄の話と同じです。本当にそんな冷たい世界で生きていきたい人がいるようには、私には思えません。

どのようなスキルについてもそうですが、やったことは伸びるし、やらなければ伸びません。人付き合いがどれだけ困難なことであったとしても、やはりそれは向き合うべきものなのだと思います。それは何よりも、自分自身のためです。

いじけて後ろを向き続けていても、いつか誰かがそこから救ってくれるなんてことはないんです。外の世界に向かって歩き出しください。あなたを救えるのはあなただけです。

(付記:この記事は2023年末〜2024年初頃に執筆されて未公開のまま眠っていたものです。シロイブックスの1周年が近くなり、未公開記事の存在をふと思い出したので、ひっそりと公開します)

今読み返すと、後日noteに書いて人気のあった記事「人を愛することに、感情の強さはあまり関係がない (2024.1.6)」の原型になっている気がする…)

叶わぬ恋をしなくなるのが大人なのかな

いつまで運命の人を待つつもりだ?

生きていて、目の前のことが思いどおりになるということはめったにありません。これがつらいのは当たり前ですし、期待してしまうからつらくなるのだと言って、この人生に何も期待するなというのは無茶な話です。そこで、残念なことは残念であるとしても、そこに執着しないとか振り回されないということが大事になってきます。

スポーツでも趣味の創作でも、結果が出ないことを続けるのはしんどいですよね。仕事だって、ちゃんと評価されなければやる気はなくなります。人には向き不向きと相性があって、報われないことを続けていてもしょうがないので、自分に向いている領域を探すということが肝心です。

叶わないということに関して、それが最も強くてわかりやすい例は恋愛でしょう。私は飲酒代わりの恋愛を美化するのはやめろ主義者なので、気持ちはわからないではないにしろ、叶わぬ恋を持ち上げるのはちょっとどうなのかなと思っています。

「世界にひとりだけの特別な存在」みたいな概念を信じるのはよくない気がします。世界にひとりだけの存在が地球上の人間それぞれにいたとして、高校や大学で出会う数十人の中にそれがいるということを大多数の人間が経験しているというのは、計算が合いません。つまり、みんなそう思い込んでるだけなんです。

こういった特別さの幻想は、「天職」や「自分が本当にやりたいこと」のような形を取ることもあります。通常、それが現実になることはありません。ないものを求め続ければ、満たされないという思いにずっと苦しむことになります。

努力した上で、偶然を待つ

相性のいい人間はいるし、特別な存在だってそのうちできます。ただ、その特殊性というのは性格的な相性だけではなくて、人生におけるタイミングや環境の偶然みたいなものも絡んでいて、パズルのピースのように純粋な人間性だけが綺麗にはまっているということはあまりない気がしています。

うまくいっている人間関係を支えているのは、うまくやっていくためのスキルと、日々の地道な努力です。半年や一年の間だけベタベタするのなら、スキルも努力も不要でしょう。ただ、私たちが求めているのはそういうものではないはずです。これが10代のうちなら、熱に浮かされた恋愛もひとつの経験かもしれません。ただ、人はいつまでも夢見る子どものままではいられないし、人として成熟するなら、人間関係だって成熟したものになっていくべきです。

運命が降ってくることを期待しないで、ちゃんと自分の人間性を磨いていくということが大切だと感じます。そして、偶然の存在はそれはそれとして認めて、普段の生活の中で人間関係を広げながら、少しだけ特別な出会いがやってくるのを待つんです。

世界にひとりだけの誰かなんていません。でも、100人にひとりだけ存在するような相性のいい人は、あなたの周りにきっといます。これは現実的な希望です。いつか、そんな人との出会いが身を結ぶことがあるはずです。

(付記:この記事は2023年末〜2024年初頃に執筆されて未公開のまま眠っていたものです。シロイブックスの1周年が近くなり、未公開記事の存在をふと思い出したので、ひっそりと公開します)

大切な人はちゃんと特別扱いしてラブを表明するんだ

人から特別扱いしてもらえると、やっぱり嬉しいですよね。普通に生きていると、友達の中でも特に大切に感じている人というのが何人か出てくると思います。さほど近しくない会社の人間関係でも、この人にはちょっと心を許してるよなっていう関係はときどき起こりますね。

これですが、相手にちゃんと言葉で表明したほうがいいです。「言わなければ伝わらない」という人間関係の一般的な原則と、「好意は伝えたほうがいい」という関係構築の手段があって、そこでこの「特別であるということを伝える」ということが出てきます。

これは好きの度合いで表現するより、「特別」というような言葉で明言したほうがよいと思います。程度の話として伝えると、人によって解釈が変わってくるので、量ではなく質として違うのだということをはっきりさせるわけですね。「大切」という言葉や「こんなに話が合うのって○○さんくらい」みたいな表現でもいいと思います。

人は誰でも愛されたいし、関心を持ってほしいと思っています。しかし、通常それは言葉で明確に表現されることが少ないので、自分が普段から親しみを表現しているつもりでも、相手はそのことについて確信を持っていません。「親しい友達だと思いたいけど、実はそう思っているのは自分のほうだけで、顔見知りとか仕方なく付き合ってる程度にしか思われてなかったらどうしよう…」みたいに不安になることってありますよね。そういう不安は誰でも持ちうるので、お互いにとっての確認として、言葉でのやりとりが必要になるわけです。

好意というのは必ずお返しが来るわけではないので、返ってこなかったらそれはしょうがないです。こちらが相手のことを好きでも、相手は知り合い程度の関係しか求めていないということはあります。それでも、いつか大切な関係に出会ったときのために、これはいつでも行っていたほうがいいです。出会ったときというか、確認することで初めて大切な関係に出会えたということがわかるわけですね。

特別な関係というのは、確認し合うことでようやく本物になるのだと思います。愛されなくても、思いどおりに行かなくても、めげずに続けていきましょう。いつか出会えます。

(付記:この記事は2023年末〜2024年初頃に執筆されて未公開のまま眠っていたものです。シロイブックスの1周年が近くなり、未公開記事の存在をふと思い出したので、ひっそりと公開します)

他人事を自分事にする

自分の仕事を始めた話

このブログは何のためにあるのか」に書いたとおり、私がこの場所で記事を公開しているのは、自分の経験を使って何か人の役に立つようなことをしたいという動機に基づいています。より正確には、そのようなことが自分にはどこまでできて、どこまで他人にとって意味のある存在になれるのかという、自分自身に対する可能性の追求です。

これは完全に個人的なプロジェクトで、私が今まで生活のためにやってきたどのような仕事とも違うタイプのものです。ここでの感じ方は、会社で働いているときの感覚とは明確に違います。朝からちょっと集中できないなと感じたとき、会社にいるなら昼休みまでの時間を適当にやり過ごせばいいだけで、別に気にも留めません。しかし、今の私はそういう時間をすごくもったいないと感じます。人間の生産性には、その日の気分と体調による波があるので、こうした時間をゼロにすることはできないと理解してはいるのですが、それでも苦痛に感じます。

自分自身に足りない能力や、結果が出ないことに対しては、はっきりと悔しく感じます。時間と体力が有限であるということを、すごくもどかしく感じます。これだけ頑張ったけど、客観的にはまだ1ヶ月分前進しただけだな、と感じたあと、自分に残された何十年かの人生のうちの1ヶ月をこれに対して使ったのだなと実感します。このようなことは、会社の仕事では何も強く感じることはなかったことです。

今までの私にとって、仕事というのは所詮、他人事でしかなかったのだと思います。これは多くの社会人にとってそうでしょう。ビジネスを自分のものだと捉えているのは、おそらく会社の創業者やお店のオーナー、そして個人事業者くらいのものです。仕事で結果を出すためには主体性が大切だとか、主体性を持って取り組んだほうが最終的には自分自身の職業生活の幸せにも繋がるのだ、といったことは事実だと思います。それでも、元々は自分のものでない仕事を自分のものだと心から感じるというのは、かなり難しいことなのではないかと感じます。

人は自分のためにしか動けない

結局のところ、人は自分自身のためにしか本気で動けないのではないか、と感じることがあります。どのような生き物も、自分自身が生存するということが第一なので、これは自然なことです。

社会はお互いをうまく助け合えるように設計されるべきだし、人間にとってやさしさや思いやりといった資質に勝るものはないという考え方には私も同意します。ただ、これも突き詰めれば「私がそのように感じるからだ」「私がそうすべきだと思っているからだ」ということでしかありません。何か意味のある人助けというのも、いつもそのように行われるのでしょう。

自分にとって他人事ではない、「自分事」とも呼ぶべきものがあります。自分の人生を何か意味のあるものにしたいというときにすべきなのは、人生から他人事を減らし、自分事を増やすということだと思います。

よく「会社の歯車に甘んじるな、若者は独立起業せよ!」などというアジテーションを耳にしますね。ビジネスの世界での起業だとかフリーランスでの独立といったことを考えるなら、人には人の適性があるし、時の運も大いに絡むので、一般的に成功率は低いです。なんだかんだと会社に対する文句はありつつも、多くの人は組織人のほうが向いていると思いますし、現実的に幸せを掴もうというのなら、それは不適切な選択では全然ないです。

世の中には、他人の夢や願望を煽ったりすることを商売にしている人がいます。それは複雑で困難な現実に向き合うということを拒否するもので、すごく無責任なことだと思います。騙されるほうもいけませんが、騙すほうが悪いです。

自分事を増やすということに単純な方法はなくて、悩みながらも仕事にちゃんと向き合うとか、家庭をつくるとか、趣味の世界を広げるだとか、そうした地道で長い道を歩むことでしかできないのではないかと思います。仕事で独立するといった話も、場合によっては出てくるかなというだけの話です。単純なひとつの野望だけで人生を構成することはできないので、全体として自分の人生を自分事にしていく、という姿勢が必要なのでしょう。

私はこれからもこうしたテーマについて考え続けるし、これを読んだみなさんにも、何かしら感じるものがあるといいなと思います。頑張っていきましょう。

(付記:この記事は2023年末〜2024年初頃に執筆されて未公開のまま眠っていたものです。シロイブックスの1周年が近くなり、未公開記事の存在をふと思い出したので、ひっそりと公開します)