人が現実を突きつけられたとき
人が病床で自分の死を受け入れるということについて、興味深い話を聞いたことがあります。漁業や農業などに従事している人は、自分の死を比較的すんなりと受け入れる傾向があるそうです。これは、自分の意思ではどうやっても左右できない外の世界というものが厳然と存在していて、自分もその中で生まれては死んでいく生命のひとつなのだということを理解しているからでしょう。
一方で、政治家や弁護士のような職業の人や、地元の名士みたいな人の場合、こうはいかないことがあるそうです。彼らは「押したり引いたりしてみれば最終的になんとかなるはずだ」という習慣ないし信念を持っていて、まったく交渉の余地のない「死」のような事実に慣れていません。主治医に「先生、なんとかなりませんか」と言ってみても、そんなことは神様でもないお医者さんにはどうにもならないことなのですが、それでも彼らは駆け引きでなんとかなるのではないかという思いを諦めることができないのだそうです。
世界のルール
人生で何かを得るということを考えたとき、ふと「人生は農業なのではないか?」という言葉が浮かびました。私は特に農業の現場に詳しいわけではないですが、素人でも思いつくことを書き出してみましょう。
「種をまく必要がある」:結果だけが勝手に空から降ってくるということは基本的になくて、あなたが得られるのは何か自分でやり始めたことについてだけです。自分で種をまくことなく、勝手に何かが起こってくれるだろうと期待することはできません。
「絶え間ない手入れが必要」:害虫を駆除したり、雑草を抜くということは、それ自体で何か価値を生むことではありません。それでも、何か価値のあることを得るためには、これは必要な作業です。煩雑で根気のいる作業をずっと続ける必要があります。
「結果は約束されない」:作物の出来は天候に左右されますし、災害が来て一発でアウトになることもあります。偶然はいつでも大きな力を持つので、努力したんだから必ず結果が出るべきだ、と言うことはできません。結果については、常に何も約束されていません。
「収穫までに時間を要する」:うまくやるためのノウハウが存在する一方で、絶対に短縮できない時間や労力があります。これに関してショートカットは存在しません。欲しいと思ったときに、それがすぐに手に入るということはありません。手に入るのは、あなたが何かをやり始めたずっとあとのことになります。
ざっとこんなところでしょうか。実際の人生はもう少し偶然性が高く、即興的な部分も多いので、農業との類型が当てはまらない部分もあります。自分の才能は未知だし、ビジネスも人間関係も複雑なものですから、「そもそもこの種子が何の作物に成長するのか誰にもわからない」といったケースはザラにあるでしょう。それでも、以上に述べたような視点を持つことは重要です。
これはすごく大変なことですが、大変であるということを理解するのは、それに対処するための第一歩です。現実をそのまま理解して、種をまき始めるなら、あなたは何かを手に入れるという可能性を得ることができます。
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