不自由を受け入れて何かを得る

ペットと暮らすと大変だという話

鳥が寂しさを感じる動物だということは、鳥と一緒に暮らしたことのある人以外はあまり知らないことだと思います。たとえば私が一緒に暮らしている文鳥は、普段は小鳥らしい声で「ピッ!」と鳴きますが、寂しさを感じたときには「キュウ〜キュウ〜」という声で鳴くことがあります。

動物と暮らすとき、よくあるのが「鳴き声がうるさい」という問題です。文鳥の「ピッ!」という声は呼び鳴きと呼ばれていて、これは人に対して何かを呼びかけている声です。基本的には「構ってほしい」というときに鳴くのですが、ときどき神経がたかぶってしまうのか、私がすぐそばにいるにも関わらず延々と鳴き続けてしまうことがあります。

公園などで小さい子どもが泣いているとき、自分が泣いているということ自体にヒートアップしていくように見えることがありますね。おそらくそれと似たような現象です。こういうちょっとした興奮は、運動面でも起こることがあって、翼が自分の意思に反して動いている(動かさずにはいられない)ように見え、部屋の中をせわしなくバタバタと飛び回ることがあります。

文鳥の声というのは、客観的に見ればそれほど大きなものではありません。ただ、部屋の中で高い声で鳴き続けられるというのは、それなりにうるさく感じられるものではあります。特に、体調が悪くて横になって休んでいて、あまり構ってあげられないときなどはそうです。こういうときは鳴き声がうるさく感じられて苛立つことがありますし、私も構ってあげられていないことが自分でわかっていますから、申し訳ないような気持ちなります。

部屋の中で過ごしているとき、いつでもうっすら文鳥を意識しながら生活しているな〜と感じます。おそらく、慣れればもう少し変わるのでしょうけど、文鳥の存在が私の生活を少しだけ制限しているというのは事実だと思います。

人が不自由を選ぶとき

この話は、言ってみれば「たかが小鳥」の話です。でも、同じようなことって人間に対しても起こりますよね。

何かを得るということは、不自由になるということを意味している場合が多いです。パートナーと一緒に暮らすということはどうでしょうか? ひとりは寂しい、誰かと支え合って暮らしたい、と願うことは自然なことです。でも、まったく別々の環境で育ち、異なる価値観と習慣を持った他者と日常生活のすり合わせを行うというのは、実際にはかなり面倒なことであるはずです。相性がよくなければ破綻することもあるでしょうし、相性がよくたって日々の継続的な努力が必要ということには変わりありません。

結婚して子どもを持てば、この傾向はもっと強くなります。男女平等とはいえ、育児の負担は母親に集中することが多いでしょう。私が以前ネット上で読んだ話で、「誰かに対して完全に一方的な奉仕を要求されるということは、現代においてはほぼ子育てだけなので、子育てを経験しない限り見えない世界というものは確実にある」というものがありました。一方で、男性は稼ぎ手として期待される傾向があり、キャリアについて冒険的な選択を行える余地は、若い頃に比べれば明らかに少なくなります。

自分の選択に納得する

どうして人がこういう不自由な道を選ぶのかというと、それはもちろん、不自由を上回るような価値のある何かを得られると思っているからです。「何かを引き換えにしない限りは何かを得ることができない」という原則に対する認識が十分でないと、「こんなはずじゃなかった」といった不満と後悔をいつまでも抱き続けることになります。

何かを得るなら、ほとんど必ず、何らかの意味であなたは以前より不自由になります。そこには、メリットとデメリットを冷静に見極めるといった視点も必要ですし、自分は本当は何を得たいのだろうかという、心の声によく耳を傾けることも必要です。

人生で何かを手に入れたいと決めたとき、不自由を避けるということはできないので、そこで「自分の選択に本心から納得する」ということが必要になるのだと思います。

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