私が実家で暮らしていた10代半ばの頃、1匹の犬が家族に加わりました。パピヨンという小型の犬種で、真っ白で長い優雅な毛と、大きな耳が特徴です。名前は「まる」といいました。まるは20代の初めに私が実家を離れてからも元気にしていて、そのまま10年以上生きました。亡くなる直前に急激に痩せてしまったのが少し痛々しかったですが、大往生だったと思います。
愛というものを考えるとき、私が最初に思い浮かべるのは恋愛に関する思い出などではなく、この犬のことです。私が愛というものを実際に知ったのは、この犬の存在によってではないかと思うのです。
動物と暮らすということが面白いのは、そこに人間関係にまつわる余計なものがまったく存在していないからです。余計なものを除くと、本質が残ります。動物と一緒に暮らしたところで、人間にとって実利的なメリットというのは何もありません。それはお金を稼ぐのに役に立たないし、どちらかというと逆にお金を食われます。動物にとっては、人間社会で偉いとか立派だとかいうことは何も意味もありません。動物と仲がいいということは他人に対する自慢になりません。彼らは言葉の世界の中には生きていないので、彼らを説得することはできないし、そこにはあなたのことを論理的に説明したり正当化したりしてくれるものは何もありません。そこには複雑なものは何も存在しません。
彼らが私たちにとって尊いのは、ただそこにいるという理由だけです。そして彼らの前では、私たちもまた、ただそこにいるだけの存在になります。ただそこにいて、関係して、生活しているだけです。そこに一緒にいて、大切なだけで、ただそれだけなのです。これが愛でなかったら、どこに愛があるというのでしょうか?
動物と暮らすというのは、現実には居住環境の制約があるので、たとえば単身者向けのアパートで大型の犬を飼うというのは難しいです。生き物は死ぬまで生きますので、毎日きちんと面倒を見て、事故などの危険や病気を回避するというのは、それなりの責任を負います。鳴き声がうるさいといったことも、もちろんあります。
それでも、これはそうするだけの価値があると思います。混じりっけのない関係というものを実際に体験することで、あなたの人間関係、人生観や人間観は一変する可能性があります。
「犬を飼ったら人生が変わった」ということは普通は言われません。ただ、犬と一緒に暮らしたことがある人たちは、はっきりと言葉で意識しているわけではないにしろ、このことを知っているのではないかと私は思います。「犬を見ろ、そこに真理がある」というのは別に冗談ではありません。この世の中で真理というものが声高に宣伝されることは決してありません。それはいつでも静かにそこにあるのです。そういうものなのです。
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