何かに悩んでいたり苦しんでいたりするときに、「もっと大変な人やもっと苦しい人だっているんだ」みたいなことを言われることってありますよね。
まあ、それは間違ってはいないです。今の日本は基本的には平和な国で、経済には多少陰りが見えてきているとはいえ、まだまだ豊かな国です。砲弾が飛んできていきなり死んだりはしないし、食べるものや住む場所がなくて死んだりするのもかなり稀なケースです。
たぶん、わざわざこの文章を読んでいる人というのは比較的読書が好きな人でしょう。おそらくあなたは18歳のときに大学に入ったと思います。で、こういうことは気にもしたことがない人が多いと思いますが、18歳で大学に入ることが当たり前というのは、たまたま運よくそういうひとつの社会的な階層に生まれたということです。
現代でも、18歳で大学に行くという未来がない子どもは普通に存在しています。昼間に大学に行って、たまにサボって、バイトをして恋愛をして、という「普通の」学生生活を彼らは得ることがないし、成人したあとの未来も当然変わってきます。そして私たちの多くは、成長すると特定の会社やコミュニティに所属して、似たような境遇の人たちとしか付き合わないようになります。
会社などで過ごしていると、あの人とは全然性格が合わないな、という人が必ずいると思います。それでもその人は、実はあなたにとても近い人間なんです。現代の日本で普通に暮らしていて、社会的な属性のぜんぜん違う人と顔を合わすのは、運転免許証の更新の日くらいでしょう。ああいうとこに行くと、ヤンキーみたいな人がいますね。そうです、ヤンキーみたいな人がいるんです。
さきほど、これを読んでいるあなたはたぶん読書好きな人だろう、と推測しました。海外文学を読んだり、国内外のノンフィクションを読むことは、間違いなく自分の見識を広めてくれます。人は自分自身の境遇について、なるべく客観的な理解を持つべきです。それは「自分だけがすごく不幸なんだ」という思い込みをある程度は防いでくれます。それはそれで必要だし大切なことなんですけど、一方でわざわざ本には書かれない世界というのも確実に存在していて、それを私たちが知ることはなくて、免許証の更新の日に見かけたおじさんとか若い女性とかが実際にそれを生きている可能性があるわけです。
「世の中にはもっと苦しい人がいる」理論には反論があります。あなたが足を骨折したとして、病院に行ったらもっとひどい事故で足を複雑骨折した人が担ぎ込まれてきました。これを見たところで、「もっと大変な人もいるんだから自分の痛みなんて軽いものだ」と思えと言うのは無理な話です。痛いものは痛いに決まっています。足を折ったという痛みは現実に存在するものであって、他人と比較したところで何が変わるというのでしょうか。
こうして考えると、人が見ている世界というのはすごく個人的なものだし、痛みや苦しみというのもすごく個人的なものだと感じます。私たちは、できれば他人の痛みや苦しみを理解できるような人間でありたいと願うでしょう。しかし、私たちは他人の痛みを実際に感じてあげることはできないし、肩代わりしてあげることできません。
誰もが他人から決して十分に理解されない存在である、という意味において、私たちは同じです。もし、他者への何らかの理解の糸口があるとしたら、その認識をスタート地点とするしかないような気がします。
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