不幸ぶってるとか実際に不幸だとか誰が決めるんだ?

私が極端に身体が弱いので、丸一日何かをして過ごすということが基本的にできません。頭を使うにしろ身体を使うにしろ、まともに動けるのはせいぜい半日くらいで、あとは静かに身体を休めている必要があります。夜もかなり早い時間から消灯して休む必要があり、そうしないと翌日がもっとひどいことになります。

こんな身体で世の中でまともに働けるはずがないので、私の職業的キャリアというものはかなり早い段階でボロボロになっています。外に出てどこかに行ったり人に会ったりするのは、楽しい反面しんどいことであり、大抵の場合はしんどいということのほうが上回ります。旅行だって楽しくないはずはないのですが、一日中知らない土地で過ごして夜は慣れない環境で眠るというのは心身への負担がかなり強いので、ほとんど行かないです。

すごく理不尽で不公平なことだと思います。人は先天的に障害を持っていたり、後天的に重い病気になったりしますが、これは本当にまったく何の意味もない偶然で、たまたまそうなったからそうなったというだけのことなのです。どんな病気を抱えようとも人は生きていなくてはならないし、死ぬときが来たら黙って受け入れて死ななければなりません。

たとえば現代でも、発展途上国などでは水道や電気がろくに使えない地域が存在しています。それに比べたら、私の生活はまだ楽なほうだと言うことはできます。ただ、途上国の人たちと私ではひとつ違うことがあって、それは私が周りにいる「普通の人」の生活というものを日常的に嫌でも意識させられるという点にあります。

自分が毎日、あまり清潔でもない重たい川の水を汲みにいっているその横で、綺麗に整備された水道から清潔な水を出しっぱなしにして、それをまったく気にかけることもなくぼんやりと歯磨きしている人を見たらどう感じますか? 私が日々感じているのは、そういうことなんです。てめえ、人生を無駄遣いしやがって

まあ、不幸ぶっててもなんにもならないし、そういう人間を好きな人もいないと思いますから、この気持ちは普段は心の奥にしまってあります。人には人の苦労があるはずなので、周りの人間がみんな能天気に生きてるとか、そんなふうに単純化するつもりもないです。

これを読んだあなたが、もし一定の健康や若さ、職業生活や人間関係を持っているのなら、どうかそれを大切にいただけることを希望します。それは本当に、本当に貴重なものなんです。

現場からは以上です。

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