「頑張らなくていい」「ありのままでいい」なんて言われたくない

「頑張らなくてもいい」「ありのままでいいんだよ」というのは、現代に流行する甘いメッセージです。昭和的ながむしゃらな努力信仰、つまり努力というものの内実よりも犠牲と辛抱を強調する価値観と比べれば、時代は一歩前進したのかもしれません。しかし、こうした受容と共感の姿勢のように見える風潮の中にも、また別の歪みが存在しているように思います。

仕事での負担が高すぎて、身体を壊してしまったという話はよく聞きますね。私も経験者ですし、友人にもちらほらいます。こうした病気の人には明らかに休息と周囲の支援が必要で、心をしっかり休ませるというのは案外難しいことなので、頑張りを避けるということを強調することは必要です。しかし、「頑張らないでいい」という態度が人生全般に対して取られた場合、これは問題になります。

実際のところ、みなさんは何も頑張りたくないと思っているのでしょうか? 仕事が大変で、やりがいを見つけることができなくて、日々疲れていて、もう頑張りたくないと感じることはあります。ここに微妙な視点があって、「頑張りたくない」というのはおそらく文字どおりの意味ではありません。本当に過度な長時間労働などを除けば、普通に働いている人の感じる「働きたくない」というのは、正確には「頑張って働いた以上はそこに意味を感じたい、何か見返りがあってほしい、頑張っても意味が感じられないからつらい」なのだと思います。

仕事に限らず、大人になるというのは大変なことです。大人になるというのは年齢の問題ではなく、自分から努力してなるものです。高校でも大学でも、新しい友達の輪を広げるには勇気が要ったはずです。新卒で就職するときには大きな不安があったと思いますし、働き続けることにはいつでも苦労が伴います。

「子どものままでいたい」などと本気で思いますか? これはあなたの可能性を花開かせることなく、それを打ち捨てて眠らせたままにしておくということです。ダイヤの原石も、磨かなければ石ころのようなものです。抑圧されて自発的な心を挫かれた大人という意味ではなく、自分の足でしっかりと立って、自分がやりたいと思うことを自由にやる能力を持つようになった人間という意味での大人になるためには、どうしても必要な努力があります。そうした努力を避けるなら、人は人生の中で何か価値のあるものを得ることはできません。

「頑張らなくてもいい」という言葉が流行する前に、もしそこに何か伝えるべき意味を込めて言った人がいるとしたら、それは「ときどき休んでもいい」という意味だったのだと思います。人間はロボットでもAIでもないので、いつでも目標に向かって頑張り続けるということはできません。それは心のエネルギーに関してもそうですし、単純に体力的な意味でもそうです。

「休んでもいい」のあとに現れるのは、「また頑張ろう」という感情です。私たちにとって本当に必要なのは、そういうメッセージなのではないかと思います。

本当は誰だって、前向きに頑張って生きていきたいと感じていると思います。「頑張らなくていい」だなんて、無責任に言われたいわけじゃないんです。私たちは頑張りたいはずです。

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