インドに行ったら自分の人生が見つかるなんて思うなよ

人生の意味っていうのは、基本的には自分で作るものです。すごく単純ではっきりした事実です。

仮に何か人間にとって普遍的な「人生な目的」みたいなものがあったとしましょう。人生の意味や目的という問題については、昔からめちゃくちゃ多くのめちゃくちゃ賢い人たちが散々考えてきたはずで、それならばすでにどこかの偉大な哲学者だとかが、その理論体系をきれいにまとめてくれているはずです。しかし、過去に書かれた本の中にそれが見つかったという話は聞いたことがありません。個別の人間の人生観にすごく影響を与えた本、というのはいくつもあったと思いますが。

ここで考えられるのは、次のようなことです。人生に意味や目的があるとしたら、それはその人自身の性質や、周りの文化的な環境に応じた個別性というのが比較的高い。そして、言葉で端的に表すということがすごく難しいか、そもそもできない。また、単一の原則というよりは、スポーツ選手の頭脳と身体がそのスポーツのあらゆる場面に適切に対応できるというような、一種のシステムのような形態を取るのではないか。つまり、それは人生の意味という何らかの定義を言葉で説明できるようになることではなくて、人生の意味というものがその人自身の内面に精神的な構造として実際に存在して機能している状態だということです。

それは本質的に言葉で説明不能なものですから、直接本に書き表されることはありません。ただ、人間の心理や幸福について論じた古典を読むとか、さまざまな映画や小説の中にある物語を見るとか、そうしたことには一定の価値があると思います。そこに表されるのは、作者自身にとっての「意味」の探究なのですが、いくら個性があるといっても人間というのはお互いに全然違っているわけではないので、その作者の探究はあなたにとっても何らかの示唆を与える可能性があるわけです。

別に自分探しをするためにアジア各国を一人旅をしたからといって自分が見つかるとは限らないですし(どうして本当の自分が外国の道端に落ちているのでしょうか?)、この職業で社会的に成功したらとか、あの人とかこの本に出会ったから本当の人生が見つかった、ということはあまりないです。もちろん、その人の性格がある特定の国の文化に合っていたということはあり得ますし、もし特定の職業がすごく自分に合っていることがわかったとしたら、そこで能力を発揮して人の役に立つことで、自分の人生に意味を見つけられる可能性は高まるでしょう。

ひとつだけ言えるのは、安直な答えは絶対にないということです。もし人生というものが、6歳児に向けた知育パズルほどの難易度しかないとしたら、まさにその事実によって人生のありがたみというものはまったく失われることでしょう。逆説的ですが、人生がものすごく難しいというまさにそのことによって、私たちはその困難な人生を生き抜いている自分自身というものに、何らかの意味を見出すことが可能になるのかもしれませんね。

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