歩いて歩いて歩き続けると自我が消滅してたのしい

このところ、1日あたり最低でも1万歩は歩くようにしています。平日と週末は別のコースで、平日は家から南のほう、土日祝日は家から北のほうです。特に毎日歩数をチェックしているわけではなく、このコースでこれくらい歩けば1万歩は超えるな、というルーチンを作ってしまっています。

ランニングを習慣にしている人の書いた記事を読んだとき、「走るということは瞑想に近い」という趣旨の話をしていて、羨ましく思ったことがあります。お仕事が激務の中で毎日走るなんてすごいですね、と言われるけれど、むしろ走るのはストレスにやられてしまわないように精神の均衡を保つためで、走らないとやってられないのだそうです。

私もランニングを習慣化しようと思ってあっさり挫折したので(まあ大抵のことは挫折するもんです)、この話を聞いたときには羨ましいけど自分にはできないなと思ったのですけど、もう少し運動負荷を下げた「歩く」という行為は私に合っていました。

私は元々「ストレス解消に長距離を歩く」ということをする人で、外出でちょっと気分を変えたいときなどは1時間半くらい平気で歩きます。で、今年に入って「毎日1万歩は歩く」を習慣として定着させようと思い、無事成功したわけです。定着させようとしたというか、「あれ、こうしたほうが圧倒的に気分がいいぞ」と気づいて、そのまま毎日続けることにした感じです。

よく言われることですが、「運動を習慣化させると、運動しなかった日にはなんとなく気持ち悪く感じる」というのがあります。私のウォーキングはまさにそうで、今や歩かずに何時間もじっと座って過ごすなんてちょっと耐えられないな、と感じます。

歩くことの効能は、現代風に言えば、生産性の向上です。まったく、現代人は何でも生産性に結びつけますね! 睡眠は生産性を向上させる! 遊ぶことはクリエイティブである! ビジネス雑誌や自己啓発本はそれでいいとしても、嫌でも目に入る電車の中吊り広告にまでそんな字面が踊っているのを見ると、いいからもうほっといてくれよ、という感情になります。

私が歩くのは、歩くことそれ自体が心地よいからであって、別に何か目的のためにやっているわけではありません。歩くということは、私のめんどくさい自我や自意識と呼ばれるものをどこか遠くへ押しやってくれます。歩くということは、私が生き物であるという単純な事実を思い出させてくれます。

運動しなきゃなと普段から思っている人、ぜひ歩いてみてください。できる範囲で、なるべく長い距離をです。誰かが植えた道端の花を、季節とともに姿を変える樹木を、広い空を見ながら歩くとき、頭を空っぽにして歩くとき、そこには何か単純でとても大きな喜びがあります。

あと、歩くようになってから「ポカリはすごくおいしい」ということを知りました。ありがとう大塚製薬さん。

関連記事