「おれがそうしたいからだ」以外の理由ってある?

2つの誤った動機

「好き」もしくは「これをやりたい」という感情はエモーショナルな部分に存在していて、少なくともそれは論理的に決められたものではありません。なんでそれが好きなの? と訊かれたとき、いや、ぜんぜんわからないと答えたとしても、それは好きという気持ちが弱いだとか、いいかげんだとかいうことを意味しません。

人からそう言われたからとか、社会でそれが推奨されているからとか、儲かるからとか、役に立つからとか、人はそういう理由で動けるようには本当はできていません。人を動かすものとして誤って採用されがちなのは、主に「恐怖心」と「ロジック」という2つのものです。

恐怖心は「こうしないとなんか言われるだろうな」という感情に代表されるものです。恐怖という単語はやや大げさですが、ささいな評判への懸念でも同じで、要は行動の基準が他人の中にあるということです。

ロジックは「キャリアアップのためには英語が必要だ、だから英語を勉強しよう」といったものです。実利に基づいており、一見するとおかしいところはないように見えますが、こういう勉強が続かないであろうことは誰でも知ってると思います。このような動機は頭の先で導いたもので、腹の底から出たものではないということです。このような理由には血が通っていません。

もちろん、われわれは社会の中で生活していかなければいけないので、衣食住を計画的に確保するという意味では、やりたくないこともやっていく必要があります。そういう意味においては、確かに努力や我慢も必要です。これは確かに簡単でない話です。生きていくのは誰にとっても簡単な話ではありません。

ただ、それは生き物として毎日餌を探すことが必要だというレベルの話であって、私たちが人間として生きている意味を実感したいと思うなら、以上に挙げたような考え方の習慣からは自由である必要があります。

自分らしさ幻想を避ける

だから、心の声に従って生きよう、自分らしく生きよう。これはよく言われることですが、ここでもまたひとつ罠があります。

自分らしくあることはよい、クリエイティブに、個性的に生きることは素晴らしい、だからそうするべきだというのは、やはり他人の概念を受け入れることです。成長の過程で「何者かになりたい」と感じるのは自然なことであり、それが何か実のあるものをもたらしてくれることもありますが、「何者でもない自分」が常に意識され続けるというのはいかにもしんどいことです。これを避けるためには、ある種のバランス感覚が必要でしょう。

「こうしたい」という気持ちを殺し続けていると、人は何のために生きているのかわからなくなります。人は自分にとって意味があるなと思ったときに意味を感じるのであって、これって意味ないよなと感じてるなら実際に意味がないわけです。トートロジーのようですが、現実にそうなんだから仕方ありません。

恐怖心とロジックの中に自分はなく、逆にコマーシャルや自己啓発の中にある「自分らしさ」もまた別の幻想です。とにかく私たちは、根気強く自分の心の奥底の声を聞いて、それに従って行動して、そこで反応する自分の心の声を再び聞いて……といった具合に微調整を繰り返すしかない気がします。

まあ、現実というのはこのように地味なものなのです。しかし、それは苦労してでもやるに値することだと私は思います。なんで生きてるのかわからないような人生を送るのは、私はごめんだからです。

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