理屈よりも感情が大切に決まってるだろ!

完全に論理的になった男の話

「完全に論理的になった男」の話を聞いたことがあります。

脳というものの働きが詳しく研究されるようになった初期の頃、戦争で頭部を負傷した人がよく研究されたそうです。この人は脳のこの部分に損傷を負った、そしてその人は精神や身体にこのような問題が起きている——つまり、脳のこの部分はこのような機能を担っているらしい。

その男が脳に損傷を負った理由は、事故だったのか病気だったのか、私がその話を聞いたのは随分前のことなので、残念ながら覚えていません。ともかく、その男の脳はある機能を失いました。それは「好悪の感情」です。つまり、「あれが好き」「これは嫌い」「こちらのほうがいいような気がする」「これはなんとなく気に入らない」といった感情です。

われわれがときに冷静な判断を忘れ、感情的に行動してしまうのはよくあることです。この男はいまや、そうした感情に振り回されることはなくなりました。彼は完全に論理的に考えられるようになりました。彼は感情に左右されない精神で、あらゆるものごとを能率的にテキパキと片付けていけるようになったのでしょうか。

実際には、逆でした。彼の生活はまったく立ち行かなくなりました。スーパーマーケットに行けば、膨大な数の食材が売られています。彼はそれらの食材の多くを、知識としては知っています。しかし、彼はその中から何か品物を選ぶことができません。「これが食べたいな」という感覚がもはや存在しないからです。

人が判断力を働かす場面は、何も具体的に人から判断を迫られた場合に限りません。われわれは日々、ほとんど意識しないレベルで無数の決断を行なっています。今日、何を食べるか。少し時間があるが、今から何をしようか。散歩をしていて交差点にさしかかっただけでも、まっすぐ進むのか、左に進むのか、右に進むのかを無意識のうちに決めています。

われわれはそのようなとき、考えうるすべての選択肢を並べて、論理的に比較検討を行なっているわけではありません。決断すべき選択肢がなんとなく浮かぶのです。ある選択肢は、別の選択肢よりもなんとなく好ましいものとして目に映ります。これが好悪の感情です。

好悪という自動的なシステムを失った彼を待ち受けていたものは、日常のあらゆる場面であらゆる選択肢を論理的に判断する必要があるという、ほとんど人間には耐えきれないような生活でした。

論理は最高のものか

世の中の一般的な認識というのは、こうです。論理的であることはよい。感情的であることはよくない

本当にそうでしょうか?

論理的であることは、確かに重要です。しかし、私は論理的であるということは一定のレベルにおいてのみ必要なものであり、世間で言われているほど論理的であることに価値があるとは思っていません。そして、人間にとって感情というものが論理よりも程度の低いシステムだとも思っていません。

論理と感情というものをめぐる状態については、私は以下の3つの段階があるのではないかと考えています。そして、人間の精神というものは、おおむね1から3に向かって成長していくものだと考えています。

  1. 感情に振り回され、論理がおろそかになっている状態
  2. 論理に振り回され、感情がおろそかになっている状態
  3. 感情が論理と矛盾なく機能している状態

感情の罠、論理の罠

1つ目の状態は「感情に振り回され、論理がおろそかになっている状態」です。これはそのままの意味で、詳しく説明しなくてもよいでしょう。あの子がキライだ、だから意地悪する。あれがどうしても欲しい、だから買ってしまう。

ここでは、意地悪するのは道徳的によくないことだ、それにもしかしたら自分の立場だって悪くなってしまうかもしれない、という論理は無視されています。高い買い物をすれば、薄くなったお財布にあとで後悔するかもしれない、という論理も無視されています。

2つ目の状態は「論理に振り回され、感情がおろそかになっている状態」です。このような言い方は、もしかしたらあなたにとって馴染みのないものかもしれません。しかし、私たちはこう考えないでしょうか。周りの人とは仲良くするべきである。身の丈に合わない高い買い物はするべきではない。

確かにそれは間違っていないように見えます。論理が取る形は、これは「論理的に正しい」のだから、そうする「べき」ということです。このような「べき」は、道徳や理想といったものとして語られます。好き嫌いの感情で、他人との接し方を変えるべきではない。感情に任せて高い買い物をするのは愚かである。

私たちは無数の「べき」に従って人生を送るべきなのでしょうか?

私たちは本当にそのような世界に生きたいのでしょうか?

第三の道

3つ目の状態は「感情が論理と矛盾なく機能している状態」でした。この状態においては、主導権はあくまで感情にあります。それが論理と著しく矛盾しないというだけです。このとき、論理は絶対的なものではありません。

苦手な人がいるからといって、あからさまに意地悪をしたり不親切な対応をしたりすることはないでしょう。しかし、その人のことが内心キライであるということが、悪いことや正しくないこととはされていません。だいたい、感情は感情であって、そこに正しいも何もありません。そこに論理が入り込む余地はないのです。

これを言い換えれば、自分に正直であるということです。人間の価値は論理的に決まるでしょうか? 論理は人生に何らかの答えを与えるでしょうか? 無論、ありそうもありません。もしそのようなことがあるのなら、過去の偉大な哲学者たちが人生に関するすべての答えを出してしまったあと、人間にとって悩みというものはまったく不要なものとなっていたことでしょう。

あなたの存在は論理でできていますか? まったく違います。そうならば、論理というものはそんなに大切でしょうか?

その先を見る

人間は心でできています。そして、心は論理でできていません。

私たちが他人を理解するとき、また自分の心の中にある悩みを整理するとき、論理は多少の役に立つかもしれません。大切なのは、論理はただの道具であるということです。論理は私たちを動かしません。論理は私たちの本質ではありません。

人間の存在は本来、説明不能のものであり、私たちはその「わからない」という状態に耐えられないがゆえ、安直な論理に頼ることがあります。私たちの思考は私たちを縛ります。思考はあなたを狭め、制限します。

あなたという存在をそれによって潰さないでください。心というものを潰さないときだけ、あなたは本当に生きることができます。

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