いいからとっとと走って逃げろ

言葉というものには、世間のさまざまな価値観、イメージ、偏見が含まれており、私たちは通常それをあまり意識しません。例をひとつ見てみましょう。

「逃げる」

これはおおむね、単純に逃げるという行為そのものを指しています。ゲームの中で敵から逃げる。鬼ごっこで鬼から逃げる。昼間イヤなことがあったからお酒に逃げる。

ここで、言葉を少し変えてみます。

「逃げ」

一気に非難がましいニュアンスになりました。学校がイヤになった? それは逃げだよ。会社をもう辞めたい? それも逃げだね。「逃げ」から連想されるのは、以下のような観念です。

  • 逃げてはならない
  • 逃げる者は敗北者である
  • 逃げる者は根性および精神力が不足している
  • 逃げるような者は厳しい社会では通用しない

うるせえ!! どんぐりぶつけんぞ!!

常識、つまり世間で流通している観念という意味ではなく、「合理的に考えて普通はそうだよね」という意味の常識に従って考えれば、無論、逃げるのは普通の選択肢です。動物は戦って勝てない相手からは逃げます。危険は避けるべきもので、生き物は自分の性質に適した環境を探し続けるのが普通です。

確かに、逃げるという行為には多少のデメリットも伴うことがあります。人間の社会には評判が付きまとうものです。ある仕事を離れることが、いわゆる「キャリア」に影響しないと言ったら嘘になるでしょう。それはそれなりにじっくり考えるべき事柄です。一方で、「逃げ」の観念を信じる者に「じっくり考える」などということはありません。なぜなら「逃げ」はなので。以上。

もうひとつ例を挙げます。

「夢に向かって努力すべき」

ここに暗黙のうちに含まれている観念がわかりますか? 次のような疑問が考えられるでしょう。

  • 夢とは、職業を指すのか? 職業がその人の人生全体を規定するべきなのか?
  • 人は世間的に何かに「なる」こと、他人から認められることを目標に生きるべきなのか?
  • 権力や成功や名声への執着、他人を蹴落とし勝ち上がることが「悪いこと」なら、なぜ「夢」という言葉で包んだときにだけ、それが褒められたこととされるのか?
  • したくないことをすることが「努力」なら、なぜ「努力」が大切なのか?

言葉というもののやっかいな点は、それが暗黙のうちに私たちの認識を歪め、制限するからです。最初に挙げた「逃げ」、それからいま挙げた「努力」などは、言葉に付随するイメージがかなり強いものと言えるでしょう。このような言葉には、独特の呪いがかかってるのです。

私たちは、言葉の持つ呪いに自覚的であるべきだと思います。幸いにも、人間には相手が心から何かを言っているのか、それともお説教や押し付けで何かを言っているだけなのか、敏感に察知するセンサーとも言うべき感覚が備わっています。呪いの含まれる言葉を使用する人と対面したとき、「ウワッなんか気持ち悪いな」と感じられるようになれば、それはおそらくあなたの心を守り、自分らしく生きていく上で役に立つでしょう。

呪いとは他人の概念です。そこには自分で考え、感じたことなどというものは何もなく、彼らは他人の言葉を借り、世間の言葉を借り、そしてそのことに気づいていません。私たちは呪いを蹴飛ばすべきなのです。あなたの人生に呪いは必要ありません。

関連記事

近い話

少し離れた話