成長と上達がいちばん楽しい

今からおよそ8年前、私がコンサーティーナという楽器でアイルランド音楽を始めたとき、イーリアンパイプスというアイルランドのバグパイプを演奏する人と知り合いになりました。私があちこちで演奏関係の集まりに足を運んでいるのを見て、この人が「今がいちばん楽しいときだねえ」と口にしたことを覚えています。

楽器の習い始めというのは、それまでまったくできなかったことができるようになるということなので、自分自身が変化していくスピードが最も速いときです。目にすることすべてが新しく、できるようになったことすべてが新鮮なので、これで楽しくないはずがありません。もちろん、何事にも上級者にしか見えない世界というのはあるので、10年だとか続けたあとにももちろん楽しみはあるでしょう。しかし、体験の持つ強さという点では、始まりがいちばん強烈なはずです。

私は今、ものを書くという行為において、再びこれと同じ経験をしています。このブログを毎日必ず更新するようになってから、2ヶ月と少し経ちました。今になって最初の頃に自分が書いた記事を読み返すと、「これはあまりよくないな」と感じる部分が多くあります。これは残念であると同時に、かなり面白い経験です。自分のまずい点がわかるようになり、今ならどうすればよいかがなんとなくわかるというのは、自分がそれだけ前に進んでいるという証拠だからです。

大人になると、何か新しい世界に飛び込むという機会は減ってしまうことが普通のように思います。これは日常の中から喜びが減るということです。大人は子どものように毎日遊んでいるわけにはいきませんから、単純に「楽しみを享受する」という意味では、それが減ってしまうのはやむを得ないのことです。

しかし、「楽しみをつくる」という点に関してはどうでしょうか? 子どもの頃、自転車に乗ることよりも一輪車に乗ることのほうが危なっかしくて楽しかったように、何かをやるときの面白さというのは、その難しさに比例します。難し過ぎてできないというラインを超えない限り、常にそうなのです。大人は子どもよりも難しいことができます。つまり、大人のほうが子どもよりも、ずっと人生を面白くすることができるということです。仕事でも趣味でも、そのようなフィールドはいつでも広がっています。

大人になると面白くなることにはもうひとつあって、それは経験によって、将来に広がっている可能性の存在に確信を持てることです。大人は「やれば本当に上達する」ということを知っています。これは場合によっては、自分はどうもこの領域は才能がないようだということに気づく形でも現れますが、もし適性がありそうな領域に出会えたなら、同じようにそれがわかるはずです。

人間は別に優秀だから価値があるというわけではないですが、何かで優れた存在になりたいということは、誰でも感じることだと思います。苦労してそのような坂を登っていっているときには、そこには意味が感じられますし、苦しい中にも楽しみを見つけることができます。

平日の仕事でも、休日の趣味の時間でも、そうやってどんどん高いところに登っていくことを楽しめるようになるといいと思います。

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