私が社会的に自死した話でもするか…。

私が個人的に「社会的な自殺」と呼んでいる出来事があります。20代の半ばに、仕事を辞めて、携帯を解約して、そのまま誰にも連絡せずに引越しをしました。

「すべてを捨ててやり直す」ということがあるとしたら、私はそれを実際にやったのだと思います。ただ、それは何も前向きで希望に満ちたことではなかったです。目の前にある人生がひたすら苦しくて、耐え難くて、どうしようもなくてそうしたというだけです。そうしたというより、そうなりました。目的も計画も希望もありませんでした。血縁のある家族を除けば、20代半ばよりも前にできた人間関係は、今はひとつも残っていません。私の周りには、20代半ばより前の私を知っている人間はひとりもいないはずです。

このようなことをやった人間の心理について、詳しく述べることができたらいいのですが、私はこの時期のことをほとんど覚えていません。それ以前のこと、つまり20代半ばより前の自分のこともあまり覚えていないです。10代の後半に、一時的に周りの人間関係に恵まれていたときのことを少し覚えている程度です。

本当に自死しなかったのはよかったと思います。私はその後もどうにか生きているし、生きていることの意味みたいなものも見つけることができたからです。今の私が自分の考えたことを文章として発表するようになったのも、そうして溺れるように泳いできた経験がベースになっていますから、無駄ではなかったということになるでしょう。

人には人の苦しみがあって、他人の心を読むことはできないので、自死を考えている人や、実際に自死を行なってしまった人の気持ちを完全に理解することはできません。ただ、私は実際にその直前まで行ったので、そうした人たちに対して「少しはわかる」程度のことを口にする権利はあるのかなと思っています。

本当に死にたいと思っている人に対しては「死ぬな、生きろ」と思っていますが、それを言うための論理的に説明できるような根拠は何も持っていないです。そういうものは初めから存在していないと思います。もし、誰かのことをほんの少しでも知ったら、人はその人に「死んでほしくない」と思うはずです。そういう気持ちがあるだけです。

この話は何か教訓を引き出して、結論を書くような話ではないです。これを読んだあなたが、もしここで書いたことに近いような状況にいるなら、私のような人間がいることを覚えておいてください。私が今、前を向いて生きているという事実を知ってくれたらいいなと思います。

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