君だけのすきぴを揃えて最強の人間関係を作ろう!

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幸せの秘訣

カードゲームで最強のデッキを作るように、すきぴを集めて最強の人間関係を作ろうという話をします。

私が20歳くらいの頃からバイブルにしていたものに、ラッセルの「幸福論」という本があります。これは哲学者の書いた本ですが、「抽象的で何かわかったような気になるけど、実際には何も役に立たない」というような話はされていません。もっと現実的に、普通の人間が普通の生活で感じる「自分は不幸だ」という感覚に対して、心の改善に役に立つ処方箋がいろいろと書かれています。

この本は「第一部:不幸の原因」と「第二部:幸福をもたらすもの」で構成されていて、第二部の最初の章である「幸福はそれでも可能か」は、次のような言葉で締められています。

あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。

ラッセル「幸福論」、安藤貞雄訳、岩波文庫、p.172

これは常識的な話ですが、すごく大切な指摘です。趣味や興味は広ければ広いほうがいいです。そしてそれはゴシップや世の中に無数に存在する不幸や理不尽とか、あなたが嫌いな人間やあなたのことを嫌っている人間に対してのものではなく、あなたの好きな人やあなたを好いてくれる人への関心であるべきです。

打順を構成する

人間関係は選ぶことができます。もちろん、相手だって同じように親しく付き合う相手を選ぶ権利は持っているので、完全に思いどおりというわけにはいきませんが、それでもかなりの部分が可能です。

ほんの少しの恋愛関係の失敗とか、友人関係の失敗で挫けていてはいけません。世の中には本当に無数の人間が存在しているので、あなたが好意を感じられる人間や、あなたに好意を抱いてくれる人間は無数にいます。10代の頃などには信じられないと思いますが、おそらくある程度の長さを生きてきた人なら、これには普通に同意してくれるのではないかと思います。

人間関係は変化するので、ときどきメンバーチェンジは発生します。それはしょうがないです。10代の頃の大切な友達と、30代に入ってからの大切な友達は違っていて当然です。日々のメンテナンスも当然必要で、あなたが愛情を受け取りたいのなら先に愛情を与えるべきで、それを継続してほしいのなら自分も継続するべきです。

これは時間のかかることですが、それでも根気よくやる価値のあることです。これを読んでいる人の多くは、まだ同年代の仲間の訃報をぽつぽつ聞くというような年齢ではないでしょう。つまり、このようなことを続けるなら、人間関係は基本的に充実していく一方だということです。

さまざまな仲間が増えていくはずです。趣味について延々とオタク話ができる友達。同じ仕事の愚痴を言える友達。心のすごく深い部分で悩みを打ち明けられる友達。もっと気楽に、行きつけのお店でちょっと挨拶を交わして一言二言話すだけの知り合いや、ほとんど話はしないけどSNSで毎日いいねを送り合っているフォロワーさん。関係の形はいくらでも考えられます。

カードゲームのデッキでも、野球のチームづくりでも、よい集団というのはそれぞれ性質の異なるメンバーが集まっていて、それぞれの長所でそれぞれの短所を互いに補い合っています。野球が好きな人なら、4番バッターだけのチームは強くならないし、面白くもならないということを知っているでしょう。

あなたの交友関係もそのようにするといいです。というか、何かが満たされれば他に足りていない何かを意識するようになるのが普通なので、これは意識しなくても、自然とそうなっていくと思います。

関係を育て、自分を育てる

人が数十年といったスパンで育てられるものにはいろいろあります。人格、人付き合いの全般的な能力、職業上の専門的なスキルやキャリアといったものですね。人間関係のネットワークもそのひとつです。

友達というのはメリットデメリットの打算で付き合うわけではないですが、できれば魅力的な人と仲良くしたいと思うのは普通のことです。周りの人間も同じように思っています。つまり、あなたが誰かを自分の人間関係の輪の中に入れられるのは、相手のほうもあなたのことを自分の人間関係の輪の中に入れてもいいと判断してくれたときだけです。

こうなるともう、あなたのやることは決まっていて、いろいろな人と人間関係を結びたいのならば、普段から魅力的な存在になれるように頑張ったほうがいいということです。魅力というのは、言語化が難しくて相性も関係してくる事柄なので、TOEICのスコアのように一次元的な数値で表すことはできませんが、それでも向上ということはあるはずです。

時間をかけて、自分にとって大切な人間関係を作っていくといいと思います。そして同時に、誰かの心の中で大切な関係として数えてもらえるように、前向きに自分を磨いていくようにしましょう。

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近い話

少し離れた話

悩みって全部気のせいなんじゃない?

悩みっていうのは、心が作り出す問題です。それはもちろん、単に「悩んでも無駄なのだから悩まないようにしよう」と決めたところで簡単に止められるものではないですが、それでも考え方と工夫次第で止めることが可能だということは知っておくべきです。

悩みを整理する上で便利な基準として、「その悩みは衣食住の現実的なニーズに関することか」というものがあります。たとえば、来月の電気代が払えないという事態になったら、それは生活に関わる現実的な問題です。しかし、周りの同年代の人たちと比較して年収が低いようだとか、能力的に劣っている気がするというのは、それだけでは実際的な問題を何も発生させていません。これは現実の問題ではなく、心が作り出しただけの悩みである可能性があります。

今、比較という概念が出てきました。これも実はわかりやすいサインで、人と比較して何かが足りないと感じるとき、それはほとんどが心が作り出した問題です。人が大金を持っているからといって、自分の財布の中身は減りません。人が自分よりイケてるとかモテるだとか、そういうのは本当にどうでもいいことなんです。

特に若いうちなどは、これが自分の容姿やステータスに関わる問題だと、冷静ではいられないかもしれません。ここ、たとえば自分が軽自動車に乗っているのに、同年代の誰かがバカ高いスポーツカーを持っていたらどうでしょうか? それを買えるだけのお金があることは羨ましく感じるかもしれませんが、スポーツカー自体は別に羨ましくはないかなと思う人も多いはずです。

私の個人的な自慢は、19世紀半ばから20世紀初頭にかけて作られた美しいアンティークの楽器を複数持っており、なおかつそれを普通に演奏できるということです。しかし、これくらい趣味の領域になると、ほとんどの人にとってはどうでもいいし、自分には関係がないと感じることでしょう。数百万円する腕時計はステータスの象徴かもしれませんが、それを特にステータスだと思っていない人にとっては、自慢げにしている姿がちょっとおかしく見えたりします。

人から認められたいという欲求は、人間にとって自然で大切な欲求なので、それを単純に子どもっぽいとか合理的でないとか言って切り捨てることはできません。人間は社会的な生き物なので、毎日ただ食べて寝て生きてるだけで満足だなんてことは言えないと思います。これは何事も程度問題で、人と比較することが前向きな向上心に向かうものならばいいですが、ステータスの追求になってしまえば心が振り回されますし、強い執着になると病的な問題になってくることもあります。

比較に関する悩みについては、本質的には必需品でない、食べられたら嬉しいおやつのようなものだと捉えておくべきです。確かに、おやつはあったほうが人生が豊かになります。それを求める努力をするのもよいことです。それでも、それがないというのは別に大騒ぎするようなことではないし、もう死んでしまいたいだとか言って深刻に悩むようなことでもないはずです。

「自分の悩みは気のせいかもしれない」という視点は、ときどき思い出すといいと思います。

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近い話

少し離れた話

再び仕切り直しと、出版準備の話

「シロイの連想日記」の開始宣言をしたのは今年の9月25日で、今日は12月24日なので、これでちょうど丸3ヶ月になりました。

ここでひと区切りつけたいと思います。これまでは毎日必ずひとつの記事をアップするという形で更新してきましたが、今後はごく普通のブログと同じく、不定期更新の形にしたいと思います。書き溜めた記事でまだ公開していないものがけっこうあるので、週末や連休期間中など、みなさんに読んでもらえそうな時期を狙って順に掲載していこうかなと考えています。

私は元々、文章を書くということをただの趣味にするつもりはなくて、ちゃんと社会の中で求められるような仕事をして、書くという行為を表現活動であると同時に経済活動にしていこうと意識していました。そろそろここらで次のステップに行こうかな、というのが今回の決定のきっかけです。

直近の計画としましては、書籍の形を想定して温めていたテーマが複数あるので、既に1冊目の執筆を開始しています。noteの有料マガジンと、amazon kindleでの電子書籍の出版という形でお届けできればと思っています。こういうことは私にとって初めての経験なので、ちょっと時間がかかるかなというのは見込んでいます。

1冊目の本の仮タイトルは「社会人のための楽器を楽しんで上達する考え方」です。楽器の上達ノウハウの話は、いつか本にまとめたいと思っていました。内容的には、具体的なテクニックよりも楽器を弾く上でのマインドや習慣づくりに関する話が多くなっています。人間の心理や上手な生き方について書くというのは、今後も私の本の中で主要なテーマになっていくと思います。

この3ヶ月間の毎日のブログ更新で得るものは多かったです。継続して書くということの訓練になりましたし、自分が何を考えているのか、何を考えていきたいのかということがはっきりした気がします。

noteの有料マガジンでは、無料で読める部分が設定できるので、なるべく立ち読み感覚である程度まで誰でも読めるような形を考えています。1冊目の出版は、春に桜が咲き始める前にはできたらいいなと考えています。執筆作業とあれこれの出版準備を、ただいま頑張って進めているところです。

楽しみにお待ちいただければ幸いです。今後もシロイの活動をよろしくお願いいたします。

私が社会的に自死した話でもするか…。

私が個人的に「社会的な自殺」と呼んでいる出来事があります。20代の半ばに、仕事を辞めて、携帯を解約して、そのまま誰にも連絡せずに引越しをしました。

「すべてを捨ててやり直す」ということがあるとしたら、私はそれを実際にやったのだと思います。ただ、それは何も前向きで希望に満ちたことではなかったです。目の前にある人生がひたすら苦しくて、耐え難くて、どうしようもなくてそうしたというだけです。そうしたというより、そうなりました。目的も計画も希望もありませんでした。血縁のある家族を除けば、20代半ばよりも前にできた人間関係は、今はひとつも残っていません。私の周りには、20代半ばより前の私を知っている人間はひとりもいないはずです。

このようなことをやった人間の心理について、詳しく述べることができたらいいのですが、私はこの時期のことをほとんど覚えていません。それ以前のこと、つまり20代半ばより前の自分のこともあまり覚えていないです。10代の後半に、一時的に周りの人間関係に恵まれていたときのことを少し覚えている程度です。

本当に自死しなかったのはよかったと思います。私はその後もどうにか生きているし、生きていることの意味みたいなものも見つけることができたからです。今の私が自分の考えたことを文章として発表するようになったのも、そうして溺れるように泳いできた経験がベースになっていますから、無駄ではなかったということになるでしょう。

人には人の苦しみがあって、他人の心を読むことはできないので、自死を考えている人や、実際に自死を行なってしまった人の気持ちを完全に理解することはできません。ただ、私は実際にその直前まで行ったので、そうした人たちに対して「少しはわかる」程度のことを口にする権利はあるのかなと思っています。

本当に死にたいと思っている人に対しては「死ぬな、生きろ」と思っていますが、それを言うための論理的に説明できるような根拠は何も持っていないです。そういうものは初めから存在していないと思います。もし、誰かのことをほんの少しでも知ったら、人はその人に「死んでほしくない」と思うはずです。そういう気持ちがあるだけです。

この話は何か教訓を引き出して、結論を書くような話ではないです。これを読んだあなたが、もしここで書いたことに近いような状況にいるなら、私のような人間がいることを覚えておいてください。私が今、前を向いて生きているという事実を知ってくれたらいいなと思います。

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「頑張らなくていい」「ありのままでいい」なんて言われたくない

お知らせ:シロイの執筆活動はnoteおよびシロイブックスの出版物に移行しています。今後の更新はそちらをどうぞ。

「頑張らなくてもいい」「ありのままでいいんだよ」というのは、現代に流行する甘いメッセージです。昭和的ながむしゃらな努力信仰、つまり努力というものの内実よりも犠牲と辛抱を強調する価値観と比べれば、時代は一歩前進したのかもしれません。しかし、こうした受容と共感の姿勢のように見える風潮の中にも、また別の歪みが存在しているように思います。

仕事での負担が高すぎて、身体を壊してしまったという話はよく聞きますね。私も経験者ですし、友人にもちらほらいます。こうした病気の人には明らかに休息と周囲の支援が必要で、心をしっかり休ませるというのは案外難しいことなので、頑張りを避けるということを強調することは必要です。しかし、「頑張らないでいい」という態度が人生全般に対して取られた場合、これは問題になります。

実際のところ、みなさんは何も頑張りたくないと思っているのでしょうか? 仕事が大変で、やりがいを見つけることができなくて、日々疲れていて、もう頑張りたくないと感じることはあります。ここに微妙な視点があって、「頑張りたくない」というのはおそらく文字どおりの意味ではありません。本当に過度な長時間労働などを除けば、普通に働いている人の感じる「働きたくない」というのは、正確には「頑張って働いた以上はそこに意味を感じたい、何か見返りがあってほしい、頑張っても意味が感じられないからつらい」なのだと思います。

仕事に限らず、大人になるというのは大変なことです。大人になるというのは年齢の問題ではなく、自分から努力してなるものです。高校でも大学でも、新しい友達の輪を広げるには勇気が要ったはずです。新卒で就職するときには大きな不安があったと思いますし、働き続けることにはいつでも苦労が伴います。

「子どものままでいたい」などと本気で思いますか? これはあなたの可能性を花開かせることなく、それを打ち捨てて眠らせたままにしておくということです。ダイヤの原石も、磨かなければ石ころのようなものです。抑圧されて自発的な心を挫かれた大人という意味ではなく、自分の足でしっかりと立って、自分がやりたいと思うことを自由にやる能力を持つようになった人間という意味での大人になるためには、どうしても必要な努力があります。そうした努力を避けるなら、人は人生の中で何か価値のあるものを得ることはできません。

「頑張らなくてもいい」という言葉が流行する前に、もしそこに何か伝えるべき意味を込めて言った人がいるとしたら、それは「ときどき休んでもいい」という意味だったのだと思います。人間はロボットでもAIでもないので、いつでも目標に向かって頑張り続けるということはできません。それは心のエネルギーに関してもそうですし、単純に体力的な意味でもそうです。

「休んでもいい」のあとに現れるのは、「また頑張ろう」という感情です。私たちにとって本当に必要なのは、そういうメッセージなのではないかと思います。

本当は誰だって、前向きに頑張って生きていきたいと感じていると思います。「頑張らなくていい」だなんて、無責任に言われたいわけじゃないんです。私たちは頑張りたいはずです。

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