モチモチ怪獣ふみ子のフォトギャラリー 2023年

私が一緒に暮らしている、白文鳥のふみ(通称:ふみ子)の写真集です。2023年版です。せっかくなので、ふみ子がこの世に存在している間は毎年やろうと思います。

ふみ子を我が家にお迎えしたときのことは「モチモチ怪獣ふみ子の話 (2023.10.6)」に書いています。また、noteにも「君たちはもっと文鳥の素晴らしさを知るべきだ (2023.12.1)」という記事を書きました。

赤子を溺愛する親のように写真を撮り続けていたので、厳選したつもりが大量になってしまいました。お楽しみください。

春(3月〜5月)

(2023.3.19) 我が家にやってきた翌日。この頃から既に怪獣だったようです。
(2023.3.23) ちびっこ雛時代は背中がグレーです。生え変わって真っ白になるのは数ヶ月あとのこと。
(2023.3.31) アルブレヒト・デューラーの版画を思い起こさせるような…。

夏(6月〜8月)

(2023.6.4) 髪型がイカしていたときのふみ子
(2023.6.6) ムンッッ
(2023.7.7) 「スサー」と呼ばれる翼のストレッチ。ケージで落ち着いているときによくやりますが、1秒くらいのことなので、写真に納めるのは案外難しいです。
(2023.7.20) フワッフワ…フワッ…
(2023.7.20) ソフトクリームの妖精です。弾力のあるモチモチがここに…。
(2023.7.30) 野菜が好きです。わざわざ登って食べます。
(2023.8.25) たまに部屋の中を飛び回ります。鳥だもんね。
(2023.8.26) 文鳥は人間の見ていないところで、人知れず静かにダンスを踊っていることがあるそうです。
(2023.8.29) キュートなお顔とお腹。お見合い写真に採用できそう。

秋(9月〜11月)

(2023.9.1) ピャッ
(2023.9.13) 人間食べ食べ怪獣です。人間を食べます。おいしいのか?
(2023.9.16) かわいいね。
(2023.11.11) 文鳥の正面顔かわいすぎ委員会 名誉会長
(2023.11.15) 安心して寝ています。寒くなると、顔を背中の羽毛に埋めます。
(2023.11.17) 毎日撫でて差し上げています。撫でて差し上げるのが人間の義務です。
(2023.11.19) 0歳にしてこのあざとい顔である
(2023.11.24) お菓子の箱の上でやりたい放題しているふみ子
(2023.11.24) 見える…檻に入れられた人間の姿が…
(2023.11.25) 翼のお手入れです
(2023.11.28) 羽が抜けました。人間により、記念品として日付をメモして保管されます。

冬(12月)

(2023.12.8) 小さくても恐竜の末裔なのでね…
(2023.12.9) かっこいいポーズ
(2023.12.14) それくらいの顔をしてくれれば揉んだ甲斐があるというものです
(2023.12.16) これはよいエビチリのポーズです。審査員のほとんどが10点を出しています
(2023.12.23) ン〜? あの人間は食べたらうまいのか?
(2023.12.23) もちろん一等賞ですが…。
(2023.12.26) 見てください、このずっしりしたいちご大福を…。
(2023.12.27) デカ文鳥です。ご利益があります。

おしまい。また一年後をお楽しみに!

心の外部にトリガーをつくる

「出かけるまでは面倒だったけど、出かけてみたら楽しかった」みたいなことってありますよね。人の心は怠惰なので、身体が動き出すまで心が動き出さないということはよくあります。心を動かすために、外部にトリガーを作っておくという習慣が大切だと思います。

たとえば私の場合、家でノートPCに向かっても何も集中できないし、大したことはできないということが経験的にわかりきっているので、何か集中して作業をしたいときには必ず徒歩圏内の喫茶店に行っています。これは家にいるときのダラッとしたモードから、周囲に人がいて背筋をシャキッと伸ばしたモードに切り替えるという行動ですが、もうひとつポイントがあって、それは頭を使う前に必ず歩いて身体を動かすという過程を挟んでいることです。よほど体調の悪い日などを除けば、これでだいたい間違いなく、数時間はやるべきことに集中できます。

休日の予定を先に決めてしまうというのもいい方法です。今日はあのお店に行こうかな、どうしようかな……などと考えていると、迷った末に面倒になって「別にいいかな」と思ってしまうことは多いですし、夕方になって「やっぱりああしておけばよかった」と後悔することがすごくありがちです。このような予定は平日のうちに「土曜日の午後はあのお店に行くぞ」というように決めてしまって、当日になってなんとなく悩むということをやめにするとけっこう楽になります。ただ、何も予定を決めずに心の向くままにぐーたら過ごすという時間もそれはそれで大切なので、ここはバランスの問題です。

外に遊びに行く予定を入れるのもいいですが、誰か友達を家に呼ぶというのもよくて、これは必ずその日までに部屋をお片付けして掃除をしなければならないというトリガーにもなるので便利です。人間はやる必要性が出るまでやらないので、やる必要性を外注してしまうわけです。友達と会えば当然楽しいし、楽しい時間が終わったら綺麗に片付けた部屋が残されるので、こういう週末を過ごせるとすごく気分がさっぱりします。

「日々を気分よく過ごす」というのは、気持ちの問題というより、習慣とスキルの積み重ねの問題のような気がします。自分の機嫌をよくするとか、自分の心を上手に取り扱うというのは、たぶん年齢を重ねた大人のほうがうまくできるようになっているはずです。

毎日を充実させて、楽しくしていけるような行動の習慣を身につけていきたいですね。

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わくわくインターネットは永遠に

「昔はよかった」というのは、はっきりとした間違いだと感じます。ワイドショーの報道とは裏腹に、統計を見れば凶悪犯罪は減っているし、日常生活に目を向ければ、おいしいものを手軽に食べられる機会はどんどん増えています。音楽に漫画に映画など、王族でも貴族でもない普通の人間に手に入るコンテンツが無限にあり、それは今現在も増え続ける一方です。

日本においては、昭和の終わりから平成の初頭にかけてバブル景気というものがありました。これに関しては、私の世代やもっと下の世代では物心ついた頃から現在までずーっと不景気だと言われていて、景気がいいという世界をそもそも見たことがないので、現実感を持って羨んだりする話ではなくなっているような気がします。人は隣人を妬むことはあっても、おとぎ話を求めて苦悩するようなことはないですからね。

私が現代に生まれて本当によかったなと感じるのが、インターネットの存在です。私の世代では既に10代からインターネットがあったので、厳密には、私はそれがない時代を知りません。ネットの発展以前に人がどうやって調べ物をしていたのかとか、どのように商業を回していたのかだとか、人間関係を維持していたのかというのは、私には想像できない世界です。

10代の頃の私を支えたのはネット上の人間関係でしたし、プログラミングを独学で身につけて新卒でシステムエンジニアになるというのも、ネットがなければ起こり得ませんでした。仕事で体調を崩して、家にこもっていたときに私に寄り添ってくれたのもインターネットの人たちです。私が今、真剣に取り組んでいる「文章を書く」という行為の主戦場はインターネットです。つまり、私の人生はインターネットでできています。10代から現在までずっとそうなんです。すごいですね。

ネット社会もスマホ社会もいろいろ弊害はあると思います。ただ、それは包丁も自転車も使い方次第で危なくはなるよねみたいな話で、便利な道具には必ずつきまとう話です。包丁や自転車は、生活上の実用的な道具であると同時に、趣味的な料理やサイクリングといった人生を豊かにする行動にも使うことができますね。インターネットは人間関係の場であり、表現の道具です。人と繋がることや、自分らしく何かをやることというのは、人間にとって最も大きな喜びの源泉になります。歴史上、人にここまで直接的な幸せをもたらす道具が出現したことって、あまりないのではないでしょうか。

インターネットの世界には、よいものも悪いものもあります。これは現実の社会と同じです。幸せに生きるコツは、自分が好意や関心を感じるものに意識のフォーカスを合わせるということです。暗いニュースやゴシップなんか検索してないで、自分が好きだなと感じられる人を見つけて、そうした人たちと繋がりましょう。好きなことを受け取って、好きなことを表現しましょう。

インターネットはあなたの可能性を解放する道具です。もはやそれは、アーティストや表現者と呼ばれる一握りの人たちにだけ許された特権ではありません。楽しみましょう。

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変われるってことをもっと信じてもいいんじゃないか

お知らせ:シロイの執筆活動はnoteおよびシロイブックスの出版物に移行しています。今後の更新はそちらをどうぞ。

みなさんはおそらく、SNSのアカウントをいくつか持っていますよね。Twitterのサービス開始は2006年だそうで、仮にあなたがTwitterがもっと一般的になった2014年頃から使い始めていたとしても、既に10年分の日常の記録が存在していることになります。

日記を毎日きちんと書けるという人は少ないですが、何もしなくても勝手に記録が残っていくというのがSNSのいいところです。ちょっと試してみて欲しいのですが、3年前や5年前、10年前あたりの自分の投稿を見返してみてください。X (Twitter)であれば、パソコンで開いた設定画面から「データのアーカイブのダウンロード」というのができますし、Twilogなどの外部サービスも使いやすいです。

昔の自分の発言を見ると、懐かしいというよりは恥ずかしいという感じが先行すると思います。これは「録音した自分の声を聞くと恥ずかしい」みたいな面もあると思いますが、もっと重要な理由があって、それは年数が経つと、自分の発言の未熟な点がよく見えるからということです。特定の立場の人への配慮をせずに偉そうなことを言っていたりだとか、社会や人間について単純化や類型化をしすぎて粗い議論をしているとか、自覚していなかったけど単に流行りの概念と世間の風潮に流されているだけだとか、いろいろあると思います。

未熟であることがわかるということは、それだけあなたが成長しているということを意味します。それは人格や価値観についてもそうですし、人付き合いのエピソードであれば人間関係のスキルが見えますし、ネット上に発表した創作物を見返したのなら、創作分野での具体的な能力についてのことになります。こうしたものはすべて、年齢を重ねるにつれて成長していくはずのものです。

受験の最中や転職を目指していたときであれば、意識的な努力というのはしているでしょう。しかし「他人のことを正確に理解し、自分と違っている部分も受容する」のようなことは、普段から鍛えようと思って鍛えている人はあまりいないと思います。それでも、周りの人間を見る目の解像度だとか、自分と異なる立場を取る人への許容の度合いというのは、5年前や10年前の自分と比べれば、常に性能が上がっていることに気づくのが普通のはずです。人は何も考えずに呑気に生活しているわけではなくて、日々悩みながらいろいろなことをやっていますから、人間性のさまざまな面は放っておいても勝手に伸びるんです。

変われるということは希望だと思います。変われるというのは、成長できるということだからです。そして今見たように、人が意識しなくても勝手に変わっていくということは、もしあなたが意識的に変わろうと決めたのなら、そのときにはもっと大きく変われるはずだということです。

人が変わっていくということには、ときに親しかった友達と疎遠になっていくみたいなこともあるので、完全にいいことばかりではないです。年齢だって、永遠に若くて元気なままでいられるならそのほうがいいでしょう。とは言っても、生き物が歳を取らないということは無理なので、暗い面よりも前向きな面に目を向けたほうがいいです。これはこじつけでポジティブ思考をするということではありません。事実として、子どもよりも大人のほうがずっとできることが多いし、大人になれば自分の足でどこへでも行けるようになります。だから、成長したあとのほうが楽しいという証拠は山ほどあるんです。

変われるということをもっと信じていい気がします。人生に行き詰まって悩んでいる人も、これで終わりだなんて思わないでください。本気で悩んだのなら、それで成長しないはずがないです。人生には停滞も行き詰まりも発生しますが、生きていればいつかそこを抜けます。

SNSの昔の投稿を見返したなら、この過去の自分は、今現在の自分のことをこの時点では何も知らなかったのだということを思い出してください。今のあなたは、暗く長いトンネルを抜け出している未来の自分のことを、単にまだ知らないというだけなのかもしれないのです。

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成長と上達がいちばん楽しい

今からおよそ8年前、私がコンサーティーナという楽器でアイルランド音楽を始めたとき、イーリアンパイプスというアイルランドのバグパイプを演奏する人と知り合いになりました。私があちこちで演奏関係の集まりに足を運んでいるのを見て、この人が「今がいちばん楽しいときだねえ」と口にしたことを覚えています。

楽器の習い始めというのは、それまでまったくできなかったことができるようになるということなので、自分自身が変化していくスピードが最も速いときです。目にすることすべてが新しく、できるようになったことすべてが新鮮なので、これで楽しくないはずがありません。もちろん、何事にも上級者にしか見えない世界というのはあるので、10年だとか続けたあとにももちろん楽しみはあるでしょう。しかし、体験の持つ強さという点では、始まりがいちばん強烈なはずです。

私は今、ものを書くという行為において、再びこれと同じ経験をしています。このブログを毎日必ず更新するようになってから、2ヶ月と少し経ちました。今になって最初の頃に自分が書いた記事を読み返すと、「これはあまりよくないな」と感じる部分が多くあります。これは残念であると同時に、かなり面白い経験です。自分のまずい点がわかるようになり、今ならどうすればよいかがなんとなくわかるというのは、自分がそれだけ前に進んでいるという証拠だからです。

大人になると、何か新しい世界に飛び込むという機会は減ってしまうことが普通のように思います。これは日常の中から喜びが減るということです。大人は子どものように毎日遊んでいるわけにはいきませんから、単純に「楽しみを享受する」という意味では、それが減ってしまうのはやむを得ないのことです。

しかし、「楽しみをつくる」という点に関してはどうでしょうか? 子どもの頃、自転車に乗ることよりも一輪車に乗ることのほうが危なっかしくて楽しかったように、何かをやるときの面白さというのは、その難しさに比例します。難し過ぎてできないというラインを超えない限り、常にそうなのです。大人は子どもよりも難しいことができます。つまり、大人のほうが子どもよりも、ずっと人生を面白くすることができるということです。仕事でも趣味でも、そのようなフィールドはいつでも広がっています。

大人になると面白くなることにはもうひとつあって、それは経験によって、将来に広がっている可能性の存在に確信を持てることです。大人は「やれば本当に上達する」ということを知っています。これは場合によっては、自分はどうもこの領域は才能がないようだということに気づく形でも現れますが、もし適性がありそうな領域に出会えたなら、同じようにそれがわかるはずです。

人間は別に優秀だから価値があるというわけではないですが、何かで優れた存在になりたいということは、誰でも感じることだと思います。苦労してそのような坂を登っていっているときには、そこには意味が感じられますし、苦しい中にも楽しみを見つけることができます。

平日の仕事でも、休日の趣味の時間でも、そうやってどんどん高いところに登っていくことを楽しめるようになるといいと思います。

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