[書評] 中井久夫コレクション 世に棲む患者 (2011)

ちくま学芸文庫から出版された、中井久夫コレクションの第1巻。これはかなりすごい本です。精神科医療のトピックについて書かれた本で、これ以上面白いものはちょっと読んだ記憶がありません。

中井久夫コレクションは続刊で「『つながり』の精神病理」「『思春期を考える』ことについて」「私の『本の世界』」と出版されていますが、第1巻のこれがいちばん面白いですね。氏の書籍はみすず書房から「中井久夫集」全11巻も出ていますが、まずは手頃なこの文庫本から入ることをおすすめします。

中井久夫先生は統合失調症の治療のパイオニアとして知られています。京都大学の医学部を卒業したのち、ウイルス研究所に勤めますが、32歳で精神科医療の世界へ転向しています。かつて「精神分裂病」と呼ばれていた統合失調症は、治療の糸口のない病気だと見なされがちだったそうですが、この天才はそうだと思わなかったわけですね。中井さんは1934年生まれですから、32歳というと1966年ごろからのことでしょうか。すごいことです。

本書はI、II、IIIの3部から成りますが、I部に「世に棲む患者」と「働く患者」という2つのエッセイが収められており、この「病むことと働くこと」をめぐった2つの論考が本書の中心となっています。1982年の「働く患者」から、以下に少し引用してみます。

「働けないこと」をめぐって、患者は慢性のおとしめを受けつづけており、そうでなくても深く傷つけられた自尊心の回復をめざして、多くの患者は無理にでも働こうとする。「ほんとうに働くことってそんなによいことと思う?」といってみると(信頼関係の前提下に)患者はこの辺りの機微を語る。

p.46-47

多くの慢性患者が、「正常人」とは、いつでも働く喜びや生き甲斐を感じ、いくら働いても疲れず、どんな人ともよい対人関係を結べ、話題につねに困らない人間であると思い込んで絶望している。これは治癒への途をはばむ余計なものである。この「超正常人」像に照らせば、いかなる人間の生も無残なものであろう。少なくとも、患者が、「正常人であること」が、そのようなお伽噺のようなものでない、あまり見栄えのしないことを知ることは、現実吟味を高める方向への一歩であろう。

p.73

労働をめぐる世間一般の圧力への疑問、そしてこの「超正常人」幻想という概念。面白いと思いませんか。

II部は統合失調症、アルコール症、妄想症、境界例、強迫症といった精神科の横断的なトピックが並びます。III部では医療と社会をめぐっていくつかのトピックが述べられていますが、最後に収められた「精神病的苦悩を宗教は救済しうるか」もかなり面白い論考です。ここから結びの言葉を引用してみましょう。

……宗教の場合はいかがであろうか。精神医学は精神科医なしにはありえないが、宗教は、生身の宗教者なしに(必ずしも僧ということではないが)ありうるのだろうか。精神医学の本を読んで治癒する人はあっても、軽症の人であろう。少なくとも精神科医が呼ばれるほどの患者の場合、いかに不完全な存在であっても生身の精神科医抜きでは治療はありえない。宗教の場合はいかがであろうか。

p.325

この問いかけで本書は閉じられているんですね。筆者の鋭い人間的洞察に富んだ、非常に面白い一冊だと思います。

【目次】

I

  • 世に棲む患者
  • 働く患者 ― リハビリテーション問題の周辺

II

  • 統合失調症をめぐって(談話)
  • 対話編「アルコール症」
  • 慢性アルコール中毒症への一接近法(要約)
  • 説き語り「妄想症」 ― 妄想と権力
  • 説き語り「境界例」
  • 説き語り「境界例」補遺
  • 説き語り「強迫症」
  • 軽症境界例

III

  • 医療における人間関係 ― 診療所医療のために
  • 医師・患者関係における陥穽 ― 医師にむかって話す
  • 医療における合意と強制
  • 精神病的苦悩を宗教は救済しうるか
  • あとがき