[書評] 鈴木大拙 – 禅 (ちくま文庫, 1987)

禅を西洋に広めた仏教学者として知られる鈴木大拙。大拙の著作はかなり読みましたが、ちくま文庫の「禅」は絶好の入門書であると同時に、最も鮮やかに大拙の思想を切り取ったものだと思います。

冒頭の「はしがき」によると、過去45年間に公にした英文の著作から、禅の本質と思われるものを選出して訳した本とのこと。「はしがき」の日付には1964年とあり、大拙は1870年生まれですから実に94歳頃、亡くなる2年前のことになります。大拙の著作の集大成と言えるでしょう。翻訳は工藤澄子によります。

個人的にはこの本を通して、私は「悟り」とは何かということに触れたような気がします。人生を変えた一冊と言っていいです。すごすぎてとても解説できる気がしないので、本書からの引用を中心に紹介したいと思います。

まずは「はしがき」から。

“それで、この書を一読すれば、大体、近代的に禅の何たるかを知得することができるわけである。しかし禅は知得するだけでなく、体得がなくてはならぬものゆえ、その知得底だけで満足すべきでないことは、今さら言うまでもないと信ずる。”(p.7)

これは禅の大前提ですね。しかし禅の知的な面への切り込みという点だけでも本書は傑出しており、この読書体験そのものが何らかの特別な「体験」と言えなくもない気がします。

以下は第一章の「禅」から、少し長めの引用です。非常に鮮烈な内容が述べられています。

“「問答」においては、神、救済、啓示、罪、赦しなど、通常宗教的もしくは精神的と考えられている問題にはまったく言及されない。この欠如はまことに顕著である。われわれの高い精神的な願いは言うにおよばずとして、日常の生活に、智慧の目覚めがどんな意味をもっているのだろうか。禅は、皿を洗うことに救いを見出すというのか。土を耕すことに、物を売ることに、救いを見出すというのか。花を眺めることの中に、あるいは挨拶を交わすことの中に、何か啓示があるのだろうか。禅僧が時々やるように、訳のわからない叫びを発することに何らかの解脱があるのだろうか。禅は議論をしたり、学説を立てたり、説教したり、説明を試みたりすることを拒む。それどころか、自分の中から出てきた問いに対する答えは、自分自身の中に見つけ出せ、と言う。なぜならば、答えは問いのあるところにこそあるからである。禅僧は言う、「わしの言葉はわしのもので、お前のではない、お前のものとはなり得ない。すべてはお前自身の中から出てこなければならぬ。」”(p.15)

最後の一句は「悟り」の定義そのものと言ってもいいのではないでしょうか。

“ひとりの僧が師匠にたずねた、「悟りを体験する以前の人はどんな人間でしょうか。」「わしらと同じ、普通の人間だ。」「では、悟りの後はどうでしょうか。」「頭は灰だらけ、顔は泥まみれ。」僧はさらに問うた、「それで結局はどういうことですか。」「ただそれだけだ。たいしたことはない。」これが答えであった。”(p.16)

これも禅に特有の考え方をよく表した表現ですね。続く第二章の「悟り」にも、同じく面白い表現があります。

“「神とは何か」と問うならば、禅匠は答えて言うであろう。「お前は誰か。」 問い「キリストは私を救い得るであろうか。また救いたもうであろうか。」 答え「お前はまだ救われていない。」 問い「仏陀は本当に悟っていたのか。」あるいは「<悟り>とは何か。」 答え「お前は悟っていない。」 問い「達摩(Bodhidharma)はインドから、どんな教えをもたらしたか。」 答え「即今、お前はどこにいる。」”(p.28)

また次のやりとりも、禅における「悟り」を非常によく表していると思います。

“ある時、趙州が南泉に問うた。 「道とは何ですか。」(道とは、ここでは、実在を意味するものと解してよいであろう。) 南泉「お前の平常心、それが道だ。」 趙州「それには、何か特別の修行の方向づけがありますか。」 南泉「ない。向かおうとすれば、すでにそむく。」 趙州「もし向かわなければ、どうして道を知り得ましょうか。」 南泉「道は知にも属さず、また不知にも属さない。知は迷いであり、不知は無智である。疑いの影さえささぬ道に到れば、おまえは、それは無限に拡がる一大虚空のごときものだと知るであろう。かぎりなく空で、善悪の入る余地もない。」”(p.29)

「平常心是道」という有名な言葉の元となったやりとりです。

第三章の「禅の意味」には、大拙自身によるこのような表現もあります。

“一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。われわれの周囲に見られる争いはみな、この事実を知らないことから起る。そこで、禅は、仏教徒のいわゆる「第三の眼」を開けという。みずからの無知のゆえに固く閉ざされて、これまでに夢想だにもしなかった世界に向かって、眼(まなこ)を開けという。無知の雲が消え去れば、天空の無限が現われて、そこにはじめて、われわれは自己の存在の本性を見る。いまこそわれわれは人生の意義を知る。人生は、盲目的な努力でもなく、また単なる獣的な力の表現でもないことを知る。そして、人生の究極の目的が何であるかはさだかにはわからないけれども、そこには何ものかがあって、この人生を生きることに無限の幸福を感じさせ、人生のさまざまの展開にまったく満足して、何の疑問も起さず、また厭世的な疑問も抱かしめないことを知る。”(p.42)

これはまったく素晴らしい、宗教的な人生肯定だと思います。

再び禅の表現として、次のような比喩に関する記述があります。

“禅が好んで用いる比喩がある。月を指すには指が必要である。だが、その指を月と思う者はわざわいなるかな。魚を持ち帰るには籠が重宝である。だが、魚はもうちゃんと卓上にあるのに、なんでいつまでも籠を気にすることがあろうか。ここに事実がある。(中略)自然が真空を嫌うように、禅は、事実とわれわれとの間に介入するものをすべて嫌う。禅によれば、事実そのものの中には何の葛藤もない。有限と無限の葛藤もなく、肉と霊の葛藤もない。これらは、知性がおのれの興味のためにかりに作り出した無意味な区別にすぎない。これをあまりまじめに受けとったり、あるいは人生の事実そのものと解釈しようとする人は、指を月と受けとる人である。われわれはひもじい時には食べる。眠い時には横になる。どこに無限や有限が入ってこようか。わたしはわたし自身で完全であり、かれはかれ自身で完全ではないか。”(p50-51)

そして以下のように続けます。

“もしあなた方が食事をとり、衣服をととのえ、野良で働いて米なり野菜なりを作るならば、それであなた方は、この世でなすべきことのすべてをなしているのであり、無限はあなた方の中に実現しているのである。”(p.61)

さて、引用はキリがないのでこの辺にしておきましょう。

続く第四章の「禅と仏教一般との関係」の論考は圧巻です。仏教の発生と発展の歴史を例に、キリスト教も含む宗教一般の起こりと心理的背景について詳しく述べられています。これを読めば宗教というものの存在について、少しは理解できた気になるのではないでしょうか。少なくとも私はこれで、宗教一般というものについて納得がいきました。またインドに起こった仏教が、いかにして中国人の心に禅として根づくに至ったのか、という描写も非常に面白いです。

第六章の「実存主義・実用主義と禅」も素晴らしいですね。仏教で言われる「空」とは何なのか、わかったようなわからないような解説は数多くありますが、これはなかなか納得のいく解説です。色即是空、という有名な言葉にも少しはなじみが持てるのではないでしょうか。

長くなりましたが、引用の文章に少しでもピンと来るものがあれば一読をおすすめします。本当に歴史的な名著です。

【目次】

  • はしがき
  • 第一章 禅
  • 第二章 悟り
  • 第三章 禅の意味
  • 第四章 禅と仏教一般との関係
  • 第五章 禅指導の実際的方法
  • 第六章 実存主義・実用主義と禅
  • 第七章 愛と力