[書評/要約] 中井久夫集6 – いじめの政治学 (1996-1998)

みすず書房から出版された「中井久夫集」全11巻の第6巻。1996年から1998年の随筆が収められています。

本書について

まずは表題作「いじめの政治学」以外の章から触れましょう。

1996年というと、阪神・淡路大震災の翌年ですね。本書も「一九九六年一月・神戸」という随筆から始まります。1997年の「二年目の震災ノート」、1998年の「ボランティアとは何か」なども震災関連の随筆です。

またこの時期は1997年に著者が精神科医を退職する時期とも重なっており、「医師は治療の媒介者」(1996年)や「ハードルを一つ上げる」(1996年)、「定年を迎えて」(1997年)もその関係の随筆です。

「ハードルを一つ上げる」から少し引用してみましょう。ウィルス研究所に勤めていた著者が精神医学に転じたときのお話です。

とにかく、私は三十二歳で精神医学の臨床に転じた。ちょうど三十年前のことである。当時は統合失調症の研究者はごく少なく、回復や治療を研究目標にする者はさらに少なかった。実際、私より数年上の世代は精神科の医師は結核医やハンセン氏病の医師と同じく、治療というより不運な人の傍にいようという決意でなる人が多かったという気がする。

私は病気の治療に取り組んできたので、それではあきたらなかった。調べてみると、回復過程というものはほとんど調べられていなかった。あるいは急性状態がどうして慢性状態に移ってゆくのかを具体的に調べたものはさらに少なかった。何だか人々は統合失調症は目鼻のない混沌のような病気だと思っているらしかった。私は目鼻のない病気なんんかあるものかと思って、何とか目鼻が見えてくるように努力しはじめた。

p.129-130

現在では統合失調症は、完治とまではいかないまでも「よくなる病気」です。統合失調症の治療のパイオニアとも言える中井先生のスタート地点には、こんな思いがあったのですね。

「医師は治療の媒介者」では、かの有名なジンクスに関する面白い記述があります。

「治そうと思うと治るものも治らなくなる」という先輩たちからの言い伝えは、若い時から治療の強引さへの戒めとしていたけれども、最初はどうしても治そうという気味合いがあったと振り返って思う。そのうち医者は触媒のようなもので治療を媒介するのがいちばんよいと思うようになり、さらに、症状や病気よりもそのひとの運が開けるようになるのがいちばん大事なことだと思うようになった。

p.106-107

そのひとの運が開けるようになるのがいちばん大事。30年も精神科医療の第一線にいた著者がたどり着いた境地として見ると、なかなか興味深いものがあります。

「いじめの政治学」について

さて、本書を手に取った方の多くは、本書のタイトルともなっている「いじめの政治学」(1997年)にいちばんの興味があるのではないでしょうか。これはいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の3段階に分けて考察した、中井先生の名随筆です。ここから印象的なくだりを引用してみましょう。

殺人は犯罪であって、軍人が戦場に臨んだ時にだけ犯罪でなくなることはよく知られている。いじめのかなりの部分は、学校という場でなければ立派に犯罪を構成する。そして、かつての兵営における下級兵いじめが治外法権のもとにおかれたような意味で学校が法の外にあるように思われるのは、多くの人が共有している錯覚である。

p.239

もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分ける最も簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

p.239-240

この「相互性」にいじめの基準を求めるのは、非常に明確でわかりやすい考え方なのではないでしょうか。

著者はいじめを権力欲の追求と見て、食欲や睡眠欲といった他の欲求と比較して、以下のように続けます。

しかし、権力欲はこれらとは比較にならないほど多くの人間、実際上無際限に多数の人を巻き込んで上限がない。その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる。このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。権力欲には他の欲望と異なって真の快はない。

p.242

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教も——。多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩として問題にしてこなかったとすれば、これは実に不思議である。むろん、権力欲自体を消滅させることはできない。その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。

p.242-243

そして本論の核心を以下のように続けます。

いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。子ども社会は実に政治化された社会である。すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。

いじめはなぜわかりにくいか。それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである。

私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。他にもいろいろな分け方があるだろうと思うが、取りあえず、これに従って説明しよう。これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。

p.244

ここから先は紹介するとなると本書の全体を引用しなければならないほどになりますが、簡単に要約してみましょう。

「孤立化」は人を持続的にいじめの対象するという最初の段階で、標的化とPR作戦からなります。標的化は「誰かがマークされた」ということを周知させることで、PR作戦は「いじめられる者がいかにいじめられるに値するか」ということを周知させることです。PR作戦はまた、被害者にも「自分はいじめられても仕方がない」という気持ちを植え付けます。この被害者の思い込みは、さらに加害者と傍観者とを勇気づけるものとなります。

「無力化」は次の段階で、被害者に「反撃は一切無効である」ことを教え、被害者を観念させることにあります。反抗のわずかな兆候も懲罰の対象となり、被害者はついには反抗することそのものをやましく思うようになります。また加害者は「大人に話すことは卑怯である」と言った道徳教育を被害者に施し、被害者は自らの中にそのモラルを取り入れるようになります。

「透明化」は最後の段階で、いじめは次第に周囲の眼に見えなくなっていきます。著者はこれの一部を傍観者の共謀によるものと指摘しており、繁華街のホームレスが「見えない」ように、「選択的非注意」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていてもそれは自然の一部、風景の一部としてしか見えなくなります。

著者は「子どもの社会は成人の社会に比べてはるかにむきだしの、そうして出口なしの暴力社会だという一面を持っている」(p.253) と指摘しています。この洞察の背景には、著者自身の子ども時代の「いじめられ体験」があり、著者はこの随筆の最後で自らの体験について述べています。

そしてここで述べられたいじめの分析に対する処方箋として、以下のように短く述べています。

このような文を書くと、対策云々はどうなのだという問いがさっそくありそうである。私は現段階では、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)の研究家ハーマンの言葉を引いて、まず安全の確保であり、孤立感の解消であり、二度と孤立させないという大人の責任ある保障の言葉であり、その実行であるとだけ述べておく。

p.257

本書はいじめの成立過程に対する鋭い分析であり、職業上子どもと接する人や、また自身の子ども時代のいじめられ体験の思い出に苦しんでいるという方にもおすすめできる名著です。気になった方は一読をおすすめします。