[書評] 鈴木大拙 – 真宗入門 (1983)

禅を西洋に広めたとして知られる鈴木大拙ですが、実は真宗関係の著作も多く残しています。「すべてをおのれの力で悟れ」とする禅宗の「自力」の教えに対して、「すべてを阿弥陀さまの力にまかせよ」とする真宗の「他力」の教えは、まったく相反するように思えます。しかし、その実は両方が「仏教」という大樹の枝分かれしたふたつの道であり、根っこにある宗教的経験には意外なほど共通項が見られるんですね。

本書は1958年にニューヨークのアメリカン・ブディスト・アカデミーにおいて、大拙が英語で真宗を語ったという講義を翻訳したものです。翻訳は佐藤平。大拙が88歳の頃のもので、当時の大拙はアメリカに在住しており、各地で講演を行なっていたそうです。

仏教になじみのない西洋人に向けて語られた言葉ですが、異なる文化的背景を持つ人々に向けて努めてわかりやすく構成された本書は、仏教に比較的なじみのない現代の日本人にとっても非常に意義のあるものとなっていると思います。これは大拙の禅に関する英文の著作とも共通していますね。これ一冊で真宗信仰の何たるかがある程度わかるのではないでしょうか。

本書からの引用を見ていきましょう。まずは真宗の開祖、親鸞について。

“親鸞は民衆が何を欲しているかをよく理解していました。当時の仏教はやや貴族的でありました。仏教を学ぶのは、たいがいは学問のある人々に限られており、そういう人々は多かれ少なかれ学問に溺れていたのです。しかし親鸞は学問が宗教経験を達成する道でないことを知っていました。もっと直接的な道、学問や儀式主義のような媒介のまったく要らない宗教経験がなければならない。そういうものはすべて、宗教経験を得るためには、宗教的意識の完全な覚醒を得るためには、放棄しなければなりません。そういう媒介は、この宗教的生活の最終目的をわれわれが直接的に達成するのを、決して妨げてはならないのです。”(p.5)

この直接的な経験というのは禅宗にも通じるものが見られますね。

“浄土は西方の何兆マイルも離れたところにあるのではない。私の解釈では、浄土はまさしくここにあるのです。具眼の人はここで浄土を見ることができます。アミダは遠くにあるところの浄土を統制しているのではなく、アミダの浄土はこの穢土そのものであります。”(p.9-10)

娑婆即浄土の考え方です。大拙はこれを、普通に解されている伝統的な浄土の説明とまったく対立するものであると断っていますが、みなさんはどう感じられるでしょうか。私には「遠くにあるもの」としての浄土の説明よりしっくりくるように感じられるのですが。

“この往生はいわゆる死の後にあるのではありません。そういう信心の篤い人にとっては、至心にナムアミダブツを称えるとき、自分が浄土に生まれるというよりも、浄土そのものが創造され、浄土が現成するのです。だから、われわれが浄土へ行くというよりも、浄土がわれわれのところへ来るのです。”(p.14-15)

「南無阿弥陀仏」とは、元々は「私は阿弥陀仏に帰依します」という意味です。しかしここでは念仏を称えるという行為そのものの中にある宗教経験が述べられています。

“通常われわれの他人への関心はすべて私欲にもとづいています。それでわれわれ人間は利他的衝動を持たないという意見まで出てくるのですが、私はそういう見解には同意できません。/われわれは利他的衝動を持っており、しばしばその証拠を示します。われわれは我を忘れて他人のために自分の命を賭けます。そしてそういう行動を遂行している最中には、何も考えていません。われわれは衝動的にこういう行動をとるのであって、これはわれわれの行為がわれわれの知らない本性から生起していることを示しています。/広く見れば、アミダ仏はこの利他的衝動を象徴するものだと言えます。これは人間の本性に深く根差しています。”(p.19)

この利他性の強調は禅宗と趣きの異なるところで、真宗を特徴づけるものと言えるでしょう。

“奇妙なことに、われわれ人間は自分のおかれている状態に満足しないのです。われわれは常に環境に不満をいだいています。これには理由があります。われわれのこの地上での生存は、実はこの状況を超えるためにあるのです。もしわれわれが別な世界において生存の意味を、生命の価値を、生活の意義を発見し得るならば、それが最も大事なことです。もしわれわれが生命の意義を、生存の価値を発見し得るならば、そのときわれわれの生活の目的は達成されて、それ以上ののぞみは持たなくなるでありましょう。”(p.27-28)

生きることそのものが生きることの目的である。なかなか到達できない境地でありましょう。

“「人を救うのは神の仕事であって、われわれにはまったく関係がない。それは神に任せなさい。われわれはそんなことで悩む必要はない。われわれは神の仕事をさまたげてはならない」”(p.31、ヴォルテールの言った言葉として)

これも面白い言葉ですね。

“… 私は、キリスト教の歴史的事実の強調について、そしてまた、どうして仏教のほうはいわゆる客観的歴史を無視して伝説や一種の神話に依拠するのに対して、キリスト教のほうは歴史に依拠するのかということについて話し合いました。/われわれは、神話と伝説と伝承と詩的想像は、いわゆる事実の歴史よりも実際には実在性があるという結論に達しました。”(p.32-33)

これは宗教一般を理解するうえで重要な視点だと思います。主観的事実は客観的事実にまさるという点ですね。

他にも印象的な言葉が沢山あるため、続けて引用してみます。

“われわれが自然に見るこの世界は、知的に再構成されています。つまりそれは真実の世界ではありません。われわれは感覚と感覚の背後に働いている知性によって世界を作り変えてしまっているのです。われわれはこの世界を再構成するにとどまらず、われわれの造作が真実のものであると思い始めるのです。”(p.35)

“私の結論は、アミダは、われわれの内奥の自己だということです。そしてその内奥の自己を見出すとき、われわれは浄土に生まれるのです。”(p.39)

“何らかの内面的苦悩がなければなりません。これは宗教的真理を会得するためになくてはならぬ先行物です。内面的苦悩なしに、ただ説教を聞いたり宗教的書き物を読んだりするだけでは、そこから何かを得ようとしても、まったく無駄であります。得られるのはただ表面の外皮ばかりです。”(p.96)

“他力は実際には思いがけなくやって来ます。われわれが本当に他力を得るとき、他力は完全にわれわれの意識を把(とら)え、自力は去ってしまいます。他力がわれわれの意識の範囲を全領するとき、それを他力であると認識させるものは何か、と問う人がいるかもしれません。事実、そこには他力の意識すらないのです。なぜなら、他力が徧満してこれに対立するものは何もないからです。ここで言葉の力は敗北します。”(p.98)

“われわれは常に悪道を避けたいと思っています。そして常に浄土を希っています。安楽土である浄土への往生を確信したいと思うのです。しかし、別世界を考えてそこに生まれたいと思っているのであれば、また悪道は回避されるべきものだと考えてそこから逃げたいと思っているのであれば、われわれはまだ自力の領域にいるのです。そこに他力はありません。(中略)道徳によって霊性的領域に到達しようと努めているかぎり、われわれは自力を用いているのです。そしてその自力は一掃されなければなりません。絶望して、「一体どうしたらよいのか」とつぶやく人がいるかもしれません。それが本当の問題であって、われわれはみんなこの窮境を通過しなければならないのです。”(p.99-100)

本書は実はページ数にして100ページ少々の短い本ですが、宗教一般と真宗信仰についてのエッセンスが詰まった名著だと思います。鈴木大拙の著作としてはちくま文庫の「禅 (1987)」の次にぜひともおすすめしたい一冊です。

【目次】

  • 第1章 限りなき慈悲
  • 第2章 内なる自己のさとり
  • 第3章 絶対の信
  • 第4章 ありのまま
  • 第5章 妙好人