名前を捨てた話

10年以上前の自分は他人と思っていい

出典不明

名前を捨てました。

どういうことかというと、旧TwitterのXを新しいアカウントにして、名乗っている名前も変えて、このブログのタイトルも変えました。なんだかすごく…呼吸がしやすいです。

人間は変わります。当たり前のことです。私は昔からそう思っているし、そう言ってきたし、そもそも私は人目を気にしないほう(というか「人目を気にする」という社会的スキルがすっぽり抜けているほう)です。人気商売をしているわけでもない無名の人ですから、「これが私である」というイメージを保つ必要もありません。いつでも変わっているつもりでした。しかし、名前を捨ててみたら、確かに私は自分の古い名前に縛られていた部分があったんだと気づきました。

人が自分の人生を変えようとしたとき、「変わろうと強く決意する」というのはいちばんダメなパターンなのだそうです。よく言われるのは、「時間の使い方を変える」「住む場所を変える」「付き合う人間を変える」の3つ、これでしか人間は変わらないという話。要は、心を変えようとするのはあまり効果がなくて、外的な環境や普段の習慣、具体的な行動を変えるしかないということですね。実際、自分や世間に対して「私はこのような人間である!」と主張したところで何も意味はなくて、人は現実にそのように暮らしているその人でしかありません。

インターネットのよいところは、いつでも新しい別の人間になれるという点です。あなたがその気になれば。仕事や住居を変えるのには、それなりに現実的なリスクを伴います。一方で、ネットを主要な収入源にしているインフルエンサーでもなければ、ネットでの生活を変えることで特にデメリットが発生したりはしないでしょう。

人は「変わりたい」と願います。「今の自分は本当の自分ではない、どこかに本当の自分がいるはずだ」と。「本当の自分」というのは実は幻想に近いものがあるかもしれませんし、あるいは単に現在の苦しい生活から逃避したいだけかもしれません。

しかし、理想郷のような「本当の自分」は見つからないにしても、やはり人間はどこかに向かわずにはいられないのではないでしょうか。変わらずにはいられないのではないでしょうか。

私の知識、価値観、ものを書くスキルなどは、確かに長い年月をかけて積み上げられたものです。学習することは人間の大切な力です。しかし、過去というものは捨てられるべきものでもあります。重い荷物を背負ったままでは遠くまでは歩けません。私はどこかもっと遠くまで行きたいのです。今よりもっと遠い場所へです。

余談

せっかくなので、シロイという名前の由来について触れておきます。

これは約半年前に一緒に暮らし始めた白文鳥のふみ子(「モチモチ怪獣ふみ子の話 (2023.10.6)」)を眺めていて、なんとなく浮かんだものです。じっくり考えたものではなくて、新しい名前は何にしようかなと思ったときに、わりとすぐに浮かんできました。

私は服を選ぶのがめんどくさいという理由で、同じものを何着か買ってある白のワイシャツをほぼ一年中着ています。冬物のコートを除けば、常に白い格好をしているんです。よく考えると、私は白が好きなんだな、ということに気づきました。ガジェットや小物の色を選ぶときも、白を手にしがちです。

あと、私が過去にネット上で名乗ってきた名前って、ほぼすべてひらがなだったのですけど(印象が柔らかくて好きなので)、今回は初めてカタカナです。私が絵を購入させていただくほど好きな画家さんに、ニシムラマホさんとキムラアサギさんがいて、カタカナのお名前も素敵だなっていうことに気づいたことが影響しています。

「連想日記」というブログタイトルも、完全に思いつきです。何から何まで思いつきですね。この余談部分は、ブログ開始とこの記事の本文公開の約2ヶ月後に書き足しているのですけど、「シロイ」も「連想日記」もしっくりきているので、感覚で決めたのも間違ってなかったのかなと思います。

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