ひとつの季節が終わった(かもしれない)話

私が出会ったほんとうのもの

おかしい。もう3ヶ月近く、まったく楽器を触っていない。

私はコンサーティーナという楽器でアイルランドの伝統音楽を演奏しています。この楽器を初めて手にしたのは、忘れもしない2015年の8月1日。アイルランドの伝統音楽には「セッション」という文化があり、これはアイリッシュパブやカフェや誰かの家の台所などに集まって、みんなで楽器を一緒に演奏するものです。

アイルランドの伝統な曲は、たった16小節かそこらの短いフレーズの繰り返しで、その特徴はフィドル(バイオリンのこと)やアイリッシュフルート、ボタンアコーディオンなどのさまざまな楽器が同一の単旋律を弾く点にあります。ギターによるコードや、バウロンと呼ばれる打楽器が入ることもありますが、基本的にはコードや打楽器のリズムがなくても成立します。単一のメロディの中にリズムが内包されているのです。

2015年の7月、ひょんなことでアイリッシュセッションという場に居合わせた私は衝撃を受けました。誰一人として楽譜も見ずに、その場で曲を出し、音を合わせ、音楽が生まれていく。すごい! 私もやってみたい! それまでにギターを触ってみたり、成人した頃にピアノを少し習ったりしたことはありましたが、本格的に楽器を習得したことはありませんでした。

楽器をすぐに注文し(このとき買ったのは廉価な入門用の楽器で、ほんの数ヶ月ののちにアンティークの本格的な楽器を買い直すことになります)、私の音楽漬けの生活が始まりました。当時勤めていた会社はそこそこ忙しかったですが、会社まで楽器を持っていき、帰りに夜の公園で毎日1時間〜2時間ほど練習しました。夏も冬もそうしました。休日もやはり、別の公園や川辺で練習しました。

元々友達などほとんどいなかった私に、友達と言える人が次々とできました。本当に心の底から信頼できる、大切な少数な人との出会いがありました。名古屋市内で月に数回あるセッションにはほとんど必ず顔を出しました。県外にも出かけるようになりました。ネットでの交流も広がりました。

明らかに、コンサーティーナは私の人生を劇的に変えました。10代の頃、当時まだそれほど普及していなかったパソコンとインターネットというものと出会ったとき、私はプログラミングを覚え、ゲーム開発などの創作活動を行うようになりました。コンサーティーナとの出会いは、私がプログラミングに出会ったときの衝撃に匹敵します。自分の本来やるべきことを見つけた、居場所を見つけた。それは世界の中に自分自身を見つけたという感覚です。

起こったこと

さて、これを書いている今は2023年の10月です。あれから8年が経ちました。今年の7月の頭にカフェにて人前でライブを行ってから、私はぱったりと楽器を手にすることがなくなっています。楽器がホコリをかぶるなどということは、この8年間で初めてのことです。ほとんど必ず顔を出していたセッションにも行かなくなりました。なんとなく人と会うことを避けるようになりました。

私の中で何が起こったのか、正確にはわかりません。ただ、こういうことがあるというのを私は知っているな、と気がつきました。楽器つながりの友人で、やはり楽器の世界から離れてしまった人がいたからです。いつの間にか楽器から離れてしまい、もうどこで何をしているのかわからない人もいれば、数年のブランクののちに音楽のコミュニティに戻ってきた人もいます。また、音楽のコミュニティには継続的に顔を出すものの、どうしても弾く気になれないからと、何年間も楽器を持ってこない人もいます。

変わらないものは美しいかもしれません。私たちは「本当に好きなこと」を見つけた人に憧れます。しかし、実際の人間はそんなに確固とした存在ではなく、ふらふらしていて、曖昧で、説明できないものです。

おそらくあなたにも、いつの間にか疎遠になってしまった友人がいるでしょう。私はもう、趣味のプログラミングをほとんど行わなくなりました。いつしか使われなくなったSNSのアカウントたち。更新の止まったブログ。アクセスできなくなった個人サイト。

それなりに年齢を重ねた今、私が思うのは、こういうときに「おかしい、私はこれが好きだったはずだ」と言ってそれに執着するのは、ほとんど意味がないということです。過去の私はそれを必要としていて、今の私はそれを必要としていないらしい。またそれが必要になれば、私はその世界に戻るでしょう。

もしかしたら、戻らないかもしれません。それでも、あの宝石なような日々がなかったということにはならないし、あの日々がつくった私という人間は今後も生きていくのだから、それでいいのです。

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