完全に安定したけりゃ死ぬしかない

本当に安定したいの?

人間にとって、安定した安全な場所にいたい、という欲求は案外強いものです。ただ、大抵の物事には両面性があって、良いことずくめなことというのはこの世にはあまりありません。安定というものの裏面は何かというと、それは可能性の消滅です。

身近な例を挙げれば、誰かと結婚するということは、他の誰かと正式なパートナーになる可能性を放棄することを意味しています。まあ、離婚して再婚する人もいますが、基本的にはそういうことなのです。完璧な人間はどこにもおらず、人生はいつでも未知でぶっつけ本番なので、完全に理想どおりに物事が進むということはまずありません。この人に決める、という決断をしたなら、あとから「やっぱり他の人が……」と言うことはできません。そこで、一歩踏み出すまさにそのときや、数年後に結婚生活が目新しいものでなくなったとき、「本当にこの人でよかったんだろうか」といった悩みが出てくることがあります。

また、仕事をするというのもそうです。何か人の役に立つ仕事をしようと思ったら、地道な積み重ねということはほぼ必須で、年単位や十年単位といったスパンで何かに打ち込む必要があります。当然、人の持っている時間とエネルギーには限りがあるので、あれにも全力だがこれにも全力だ、という状態はあり得ません。自分が深く進む専門分野を決めたら、他の分野に深く進むことはできません。何かになるということは、他の何かになる可能性を捨てることでしか実現できないのです。

もしもこの先、あなたが安定を得たということがあるなら、それは必ず、他の何かの可能性を捨てたという状態のあとにあるはずです。

いつだってまだ若い

若いうちというのはまだ自分が定まっていないので、いつでも漠然とした不安がそばにあります。それを裏返せば、あなたの中には無数の可能性があるということです。年配の人から若い人に対して何かが語られるとき、それはほとんどいつでも未来の可能性について触れられています。でも、学校の行事で偉い人が壇上からそれを話したとき、あなたはこれといって特に感銘を受けなかったでしょう。それは私たちが普段、空気中に酸素があるという事実に感謝しないのと同じです。若いあなたの周りにはそれが当たり前に存在していて、あなたはまだそれを失ったことがないので、その大切さを実感することができないのです。

おじさんが10代や20代の人たちを見て「若いなあ」と言うとき、そこに見ているのは、自らが失った可能性です。そのおじさんはそれなりに立派に働いていて、奥さんと子どもがいて、もう若い頃のように身を切るような将来の不安に苛まれることはありません。若者が「その辺にいるおじさん」をかっこいいと思うことはまずないと思いますが、こうして社会でそこそこ平凡でそこそこきちんとやっているおじさんというのは、実を言うとかなり優秀ですし、相当努力しています。そしてその安定の裏には、選ばなかった無数の人生が存在していて、人はそうして失ってしまった可能性について、時折懐かしさと若干の寂しさを持って思い返すのです。

たまに大学生になったくらいで「もう若くないし〜」なんて言ってる人がいますね。なーに言ってんだ君なんてまだ赤ちゃんだろ、と思いますが、こうしたことは20代でも30代でも感じがちです。もう若くない。本当ですか? 既に精神的に死んでしまったということを認めるんでしょうか? 本気で言っていますか?

世界は変化して、人間は成長するというのが普通なので、人の心が固定されたポイントで安定するということは絶対にないです。人は安定を求めますが、それは現実が苦しいから酒を飲んで酔っ払っていたいという欲求と同じです。それは気の迷いのようなもので、本当に目指すべき場所はそこじゃないんです。安定というのは、本当は理想的な状態でも何でもありません。

安定を目指さない

自分にしっかりした自信を持つとか、安心できる相手や場所を見つけるというのは大切なことです。精神的に混乱していないという意味での安定した心を持つことは確かに大切です。人は生活していかなければならないので、経済的な安定だってもちろん必要です。

ただ、安定というのはゴールではないのです。あなたが不変のものになるのは、あなたが死んだときだけです。それは人生の最後に必ず存在するという意味ではゴールですが、目指すべきものという意味でのゴールではありません。不安は避けるべきものではなく、向き合うべきものです。可能性があるときには、あなたは必ず不安であるはずです。

不安でなかったら、あなたは生きていないのです。

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