自分を信じるとはどういうことか

目的地をはっきりさせる

健全な意味での自信を持っている人というのは意外と少なくて、それはあやふやすぎたり、逆に誇大すぎて現実に即していないことがあります。人からの評価というのはいつでも頼りないもので、自分を信じてあげられるのは最終的には自分しかいません。

できることなら自分に自信を持ちたいと思っている人が多いと思いますが、「どういう状態になったら自信を持っていると言えるのか」と訊かれると、けっこう言葉に困るのではないかと思います。目的地がはっきりしていないのなら、それを得ることも難しくなるはずです。

「A」というものの輪郭をはっきりさせるためには、「Aとは何なのか」と問うよりも、「これはAではないと言えるものは何か」と問うことが有効な場合があります。これは自信とは違うようだな、というものを挙げてみましょう。

自信と言うのは十分でないもの

まず、自信は「自分は正しい」と思うこととは違います。心理学の本を読んでみると、人間はすごく間違いやすいという事実がさまざまな研究で明らかにされていて、「人間はこのような状況でこのように誤る傾向がある」というパターンが無数に存在することがわかります。分別のある人なら、「自分は間違う」ということを必ず知っています。むしろ、間違いを指摘されたときに冷静にそれを受け止めて自分の考えを修正できる人がいたとしたら、その人はすごく自信を持っているように見えますよね。だから、自分を信じるというのは「自分が常に正しいと思う」というのとは違うのです。自信のある人は、自分が正しいという考えに執着する必要がなくなります。

他人からの評価というのも、自信を持つためには十分ではないようです。自信をなくして落ち込んでいる人に、具体的な例を挙げて「そんなことはないよ」と否定しても、あまり効果がないことがありますね。自信というのは理屈よりも実感としてあることなので、人から何か言われることで簡単に修正されることではありません。そして、他人の評価をいつも気にしているというのは、どちらかというと自信がない人に見られる傾向だと思います。

自分を信じるということは、個別の高い能力を持つということとも違います。バイオリンを弾けるだとか、電気工事の技能を持っているといった人たちがいます。このようなことは明らかに誰にもできることではないですが、そうした人たちが皆自分に自信を持っているかというと、そうではなさそうです。楽器の演奏や工事といったものは人間性の領域ではないからだ、という指摘が考えられますが、では高いヒューマンスキルを持っているであろう看護師やカウンセラーといった人たちは皆自信を持っているでしょうか。これも違いそうです。どうも、能力があるというだけでは自信の根拠にはならないようですね。

以上に挙げたようなことが、自信とはまったく無関係だと言うつもりはないです。何か間違ったことをしながら自分は正しいと思い込んでいるのは変ですし、周りのほとんどの人からバカにされているのに自信を持っているということは難しそうです。具体的なことを何もしていないのに自信だけはあるというのもおかしいですから、何かができる能力があるというのは自信と無関係ではないはずです。ただ、それだけでは十分ではない、ということなのです。

「なぜ」という問いを止める

自信というのは、おそらく本質的に言語化が難しい領域にあるものだと思うので、今後も誰か学者などによってはっきりした理論が与えられるようなことはないと思います。「これをやれば必ず自信が得られるメソッド」というのもたぶんなさそうです。(そういうものが詐欺めいた高額な商材として存在することはありそうですので、気をつけましょう)

自信というものを考える上で重要なポイントは、それが根拠に依存しないということです。実は自信というのは、客観的な根拠によるものではありません。自分が○○という仕事をしていて、年収が○○万円ある、というのは客観的な事実です。これはもちろん自信の根拠にはならなくて、「それがどうしたの?」の一言でおしまいにされてしまう話です。

私が個人的に理解している自信の定義は、「無限に続く『なぜ』という問いを断ち切ることができる」というものです。物事というのは、実はいくらでも疑うことが可能です。自分はこういうことができるからすごい人間なんだ、といった考えには、すべて「だから何なの? 何か意味があるの?」と言うことができます。

こうしたとき、「いや、それは意味がある、自分は意味があると思うんだ」と思えることが自信です。そこで「なぜ」という疑いをきっぱりと止めることができるということです。人から疑われるということに対しても、自分で自分を疑うということに対してもです。

自分がそう思うからそうなんだ」というのは、ある意味では子どもが言うような理論に見えますね。でも、本当の自信というのは、そういうものでしかあり得ないんです。こうしたことを強弁でもなく、現実逃避でもなく、心の底から言えるようになったとき、あなたは自信を持っていると言えます。

自信を身につけるには

では、そのような自信は、具体的にどうすれば身につくのでしょうか。さきほど、客観的な正しさ、他人からの評価、個別の能力というものだけでは自信には十分ではないと述べました。ここで逆のことを言いますが、このような要素は、実は自信を持つための道筋としては必要です。

つまり、あなたは具体的な能力を使うような何かを行う必要があります。自信は心の中のはたらきですが、それを身につけるためには、外の世界で何かを立派にやり遂げる必要があります。それは独りよがりな行為ではなく、社会的に何かある程度の意味を持っている必要があります。それが周りの人にとっても意味があるということを確認するためには、人から評価されるということも必要です。

ここで実際に何をするかというのは、あなたが置かれている環境とあなた自身の性質によるので、一概には言えません。とにかく興味を持てることを探して、それを突き詰めてみるということしかないです。これはおそらく、今のあなたにとっては曖昧でつかみどころのない話だと思います。よく憧れられるような世界的なアスリートやアーティストは、「15歳の頃には既に世界の頂上を見ていた」というような例外的な偶然の組み合わせに恵まれたケースなので、普通の人には参考になりません。

あなたが個別具体的な何かを突き詰めると、それは徐々に自分というもの全体についての自信へと広がっていくはずです。これはすごく長い過程になります。「自信があったら何かをやれるのにな」などと思って待つには、人生は短すぎます。自信がなくても、とにかく何かをやってみるしかないです。

「手っ取り早い方法はないので、とにかく頑張るしかない」というのはほとんど人生の真理なので、これを避けることはできません。頑張りましょう。自信を得るためには、有名人になる必要もお金持ちになる必要も一切ありません。あなたが本当に頑張ったのなら、いつかそれは得られるはずです。

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少し離れた話

ブログ雑感 2023年10月

当月の振り返り

のちのち振り返りに役に立つかなと思って、月に1回、ブログ雑感という記事を書くことにしました。

このブログを毎日更新するということを始めたのは、2023年9月25日です。「久しぶりにワクワクしている (2023.10.23)」の記事で書いたとおり、当初から明確な目標があったわけではないのですが、今の私の中には、目標が固まりつつあります。それはおれは物書きになるぞということです。

具体的にどのようなことができて、どのような立ち位置になれたら目標達成なのかということについては、おいおい書くかもしれませんが(書かないかもしれませんが)、書くということを自己満足にしない、ということは現時点ではっきりと決めています。それは社会の中で何らかの役割を果たして、きちんと収入を得るということです。人は自分が欲しくないものや役に立たないものにはお金なんて払いませんから、お金を受け取るということは、基本的には誰かの役に立ったという間違いのない証拠になります。私は今からそこを目指します。

X (Twitter)の @shiroi_ze は当初から運用していますが、Blueskyの shiroize.bsky.social と、Threadsの @shiroi_ze についても、ただいま準備を進めています。ただ、これらには同じ情報を載せようと思っているので、どれかひとつをフォローしていただいていれば、他のフォローは特に必要ありません。

おすすめの記事

おすすめの記事の一覧」というページを別途作っていますが、ここでは少しコメントを添えて、2023年10月のおすすめ記事を3つ挙げてみます。

まず「楽しいっていうのは大変だってことだ (2023.10.14)」。たぶん多くの人は、何か夢中になれることを見つけられたらいいなと感じていて、どうやらそれを見つけたらしいという人を見ると、羨ましいと感じます。自分には何もない、早くそれを見つけたい、と感じたりします。

ただ、それって「楽しくて楽しくて仕方がない」というのとは少し異なると思うんですよね。私自身は過去にプログラミングを身につけたり、楽器にハマったりしてきましたが、今回こうして真剣に書くということに取り組むようになって、確信に変わったことがあります。それは、楽しくて、夢中になれて、やりがいがあることというのは、常に大変なことなんだということです。

読者のみなさんに対して、人生に何らかの意味を見つけてほしいというのは、私がものを書いている中心的な動機です。ここで、最初に上記のような点について誤解があると、おそらく自分にとって本当に楽しくて意味のあることを見つけるということに失敗します。探すなら正しい場所を探してほしいと思ったので、この記事を書きました。

次に「愛が知りたければ動物と暮らせばいい (2023.10.17)」。人生で何が大切なのか? と訊かれたら、それは愛でしょ! と答えます。ただ、愛というのは執着とか欲とかが絡むので、何が本当の愛なのかっていうことを理解するのは難しいです。「本当の愛」という言葉自体、何か幻想を含んでいる響きがありますよね。

そういう中で、もしかしたら動物と暮らすことが愛を理解する手がかりになるのではないか? ということをこの記事では述べています。これは私が実際に10代の頃に犬と暮らしていて、30代になって今度は文鳥と暮らし始めたという経験から来ています。もちろん、動物よりも人間と関係を築くことのほうがずっと重要ではあるんですけど、動物と暮らすという経験は、人間と暮らすことからは得られないような何かを示唆すると思ったんです。

最後は「あらゆる物事は面白くすることができる (2023.10.20)」。書くという活動を行なっていると、どう面白くしたらたくさんの人に読んでもらえるのだろうということをよく考えます。そこで思い出したのが、過去に私が思いがけずプロレスの面白さに気づいたときの経験です。

私は今の時点で「自分に降りかかった出来事を全部ネタにしてやる、苦しみも悲しみも全部面白くしてやる」という気持ちでいます。人が表現できるのは、自分が経験した自分の中にあるものだけですが、そのままの形で独白しても面白くはなりません。

恨みがましかったり、自分に酔っていたりする人の話は聞きたくないですよね。逆に、自分自身の失敗談をネタにして面白おかしく話せる人がいますが、あれはすごいと思います。私もそういうところを目指したいなって思っています。

結び

書くということに真剣に取り組み始めてから1ヶ月少々なので、クオリティについてはまだ十分でないと思います。

ただ、1日あたり1記事を公開すると決めている中で、それよりも早いペースで書き続けているので、10月が終了した時点で、11月の末までの分の記事が既に書き上がっています。なので、今みなさんのところに届いている記事って、実は公開されるよりもけっこう前に書き上げられたものなんです。(この雑感の記事は別ですが)

最近書き終えた記事は、最初の頃に書いた記事よりも多少は質がよいです。よいというか、逆に初期の頃の記事を見返したときに「今よりもうまく書けていないな」と感じます。初期の語り口にはやや力みが感じられますし、今ほどスラスラと書けてはいなかったように記憶しています。結局、やっていることは勝手に上達していくので、今後はもう少し読んでいて楽しめる記事が増えていくのではないかと思います。

私は10代の頃から長いことインターネットの海で暮らしていますが、更新を楽しみにしているコンテンツというのがいつでも2つか3つあったように思います。昔であれば個人サイト、もう少し後になるとブログ、さらに最近ではSNSですね。私は今、誰かにとってそういう「楽しみな存在」になることを目指して、この場所を育てています。

夕方や夜になって、学校や仕事が終わったときに、今日はどんな話かな、って思いながら読んでくれたらいいなと思います。楽しんで、役に立って、勇気づけられたと感じてくれたら嬉しいなと思っています。

引き続き頑張っていきます。今後も「シロイの連想日記」をよろしくお願いします。

ちょうどいい季節ってないよね

私は汗をかくということがオクラや納豆と同じくらい嫌いで、さらにエアコンの冷たい風に当たると体調を崩す体質なので、夏になると起きてる時間中ずっと「もうやめて〜」と思っています。寒いのはどちらかというと大丈夫で、冬の冷えた空気に触れると「生きてるな」っていう感じがします。

私が長く住んでいる土地には、立派な桜並木があります。春先に花を咲かせて、真夏に深い緑になる桜の木を見ると、生命っていうのは夏の側にあるんだな、と感じます。冬の枝は葉っぱが全部落ちて寂しくなっていますよね。生命力とは熱のことなので、冷えた生き物は活動量を低下させます。そう考えると、私が冬の寒さに「生きてるな」と感じるのは少し不思議です。これは死というものの影を見ることで逆に生が意識されるということかな、となんとなく思っています。

今、これを書いている季節は秋ですが、暑いのが終わったと思ったらすぐに寒いのが来ることでしょう。ちょうどいい季節なんてほんの一瞬で、ほとんど無いようなものです。大抵の日は、寒すぎるか暑すぎるかのどっちかです。

まあ、そういうものなんでしょうね。暑くも寒くもない日が一年中続いたら、それはそれで面白くなさそうです。夏にも冬にも文句はあるけれど、人間の生活には夏も冬も必要なんですよね。これは面倒な仕事や人間関係と同じで、大体いつでも、人生につきまとうのはそういう性質のものなんです。

あらゆる発言と行動には難癖をつけることができる

ある風刺画

インターネット上には無数の印象的で面白い画像が流通していて、それは名作と呼ばれる漫画の一コマの抜粋だったり、無名の誰かがやっつけで作った雑なコラージュだったりします。私が過去に目にした面白い画像で、おそらくちゃんとした風刺画の画家が描いたものだと思うのですが、ラクダと老夫婦というものがあります。

これはラクダを連れた老夫婦と、それを見た第三者が何か言っているという、4つの異なる状況を描いたコマで構成されています。まず、ラクダに夫が乗っているところに対して言われるのが「女性に歩かせるとはどういうことだ」。次に、ラクダに妻だけが乗ると「夫を立てるということを知らないのか」。さらに、ラクダに老夫婦ふたりが乗ると「ラクダにそんな重さを課して、残酷だと思わないのか」。最後に、ふたりともラクダに乗ることなくそのまま連れて歩いていると「ラクダの使い方も知らない愚かな人たちだ」。

これはかなり面白い例で、ひとつの事実を明白にしています。それは、「あらゆる発言と行動には難癖をつけることができる」ということです。

批判されたら何かをやってる証拠

完全無欠な人間はこの世にいませんが、仮に完全無欠の人間がいたとしたらどうでしょう? これを想像するのは簡単で、「そういう完璧ぶったところが俺は気に食わないんだ」と言う人が必ず出てきます。ギャグみたいな話ですが、本当に出てきます。

人間はときに間違うものですし、違った感じ方をする人間というのは常にいます。好き嫌いは誰にでもあるし、うっかり人を傷つけてしまって後悔することだってよくあります。だから、自分が気がつかなかった誤りや欠点、別の視点といったものを人が指摘してくれるといったことに対しては、いつでも受け入れる用意をしておくべきでしょう。

一方で、ただなんとなく気に入らないというだけで発せられた心ない言葉というのも世の中にはたくさんあって、そういうことにいちいち傷つく必要はありません。傷つけてやろうなんて人の言葉に本当に傷つくなんて、ちょっと悔しいですよね。そういう人には私は傷ついてやらないぞ、という姿勢を持ちましょう。

私が過去にネット上で読んだ言葉で、印象に残っているものがいくつかあるので紹介します。まず、漫画を描くことについての発言だったと思いますが、「悪口は有名にならないと言ってもらえない」という言葉。次に、「これは面白くないという人が現れ出したら、主要なターゲット以外の層にも広まってきている証拠だ」という言葉です。これは何かを作ったりして発信している人には有用な考え方ですね。自分の作ったものが広まれば何か言う人は必ず出てくる、むしろ広まったという事実がわかったならそれはよいことなので、批判なんて気にせずにもっとがんばろう、ということです。

もうひとつ、「失礼な人の言うことは聞かなくてもいい」という言葉もあります。こちらは仕事の場面など、日常にも使える考え方でしょう。ちゃんとした社会人の人であれば、言い方には気を遣います。誰かの仕事に直してほしいところがあったとき、それを指摘するのって気を遣いますよね。「正しいことを言う」というのは常に人を傷つける可能性があって、相手の逃げ道を塞いで正論で責めるなんてことは、まともな感覚を持った人であればまずやりません。こういうことをする人は、無意識にせよ相手を傷つけること自体が目的になっていることがあって、それはまともに受け取るに値しないことです。

人から批判されるというのは、実際にあなたが何かをやっているという証拠です。そういうことは右から左へ聞き流すべきです。もちろん、人間の気持ちはロボットのように完全に合理的にというわけにはいきませんから、傷つくよなあ、という気持ちになることはあるでしょう。しかし、もう一度言いますが、私は傷ついてやらないぞ、という気持ちを強く持ちましょう。そんな人たちのためにあなたが傷ついてあげる必要は全然ないのです。

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フリでもいいからやってみる

人はやったとおりの人間になる

吉田兼好の「徒然草」の有名な一節に、「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」というのがあります。内心がどういう「つもり」であれ、その人は実際に行動したとおりのその人であるし、世間もそのように理解するだろう、ということです。

「自分はやさしくて思いやりに溢れた人間なんだ!」と思うことにはあまり意味がありません。それは実際に自分がそういう行動をして、相手がそう感じたということの積み重ねでしか現実にはならないからです。自己啓発本などで「心構えを変えるんじゃなくて具合的な行動を変えろ」というのは散々言われていることですが、あちこちで繰り返し言われるというのは、それだけ実行することが難しくて、実行できる人が少ないということなのかもしれません。

自分を変えるということは確かに難しいように思われますが、ここでひとつの別の考え方があります。人は実際にそのように行動したその人でしかなく、世間もそのように評価する。これは実は、自分を変えるためには心を変える必要はないということです。

他人のことを羨ましいと思ったりするのって、簡単にはやめられませんよね? では、悪口や噂話をしないようにする、というのはどうでしょうか? これは、やろうと思えば意外とできるんじゃないかなと思います。

試しに善人になってみる

人が内心感じたことについては、それは実際に感じたということであって、正しいも間違いもないです。ただ、その後どう行動するかというのは別の問題で、心の中で怒るのはよくても、言葉や行動で人を傷つけるのはダメです。そういう意味でも、やはり基準は行動のほうにあります。

悪口を言わないというのは人のためでもありますが、自分のためでもあります。ああいうことをしていると、自分が下げられて、魂のどこかが汚されたような気持ちになりませんか? それは、悪口を言う一瞬の気持ちよさみたいなものに釣り合うものでは全然ないと思います。

人間は誰も聖人ではないので、完全に善い人というのはどこにもいません。ただ、フリでもいいので善人になろうとする、ということには意味があります。そうすることで、たぶんあなたは実際に善人に近づくし、本当のところ善人になる方法というのは、それ以外にはないかもしれないのです。

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