自分で自分のこと落としちゃダメです

シェフに「この料理はあんま自信ないんですけど…」なんて言われたくないだろ、堂々としてろよ 自己卑下はやめろ

2023/10/8 15:38

いや〜私なんて別にたいした価値ないんでエヘヘ…とか言ってたらダメだよ、エヘヘじゃねえよおまえがおまえのこと笑ってどうすんだよ

2023/10/9 18:35

まあ、今回言いたいことは、記事のタイトルと上記の2つの引用だけで言い尽くしています。自分で自分のことを落としたら絶対にダメです。自分が自分のことを大切にしてあげないなら、信じてあげないなら、認めてあげないなら、誰にそれができるっていうんですか。

大人になったら、「泣いていじけていたらそのうち誰かが慰めてくれるはずだ」なんて思わないでください。もしかしたら慰めてくれる人はいるかもしれないし、逆に誰かが泣いていたら何かしてあげたほうがいいかもしれませんが、それでもそういうことをアテにしていてはダメなんです。

あなたにとって大切な誰かが、自分なんて本当に何の価値もなくて本当に無意味なんだと言ったら、あなたは悲しくなるはずです。だから、あなた自身も自分のことをそういうふうに扱わないでください。

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心の中のガソリンの話

「頑張れば何でもできるはずだ」というのは、明らかに誤った考え方です。人のやることは何でも周りの環境とか偶然とかにかなり左右されるものだ、という外的な要因もありますが、そもそも人の持っているエネルギーは有限であるという事実があります。自動車にガソリンを入れるなら、タンクの容量と燃費というものがあり、それ以上は何をどうやっても走れません。人間の場合だけ、それが「精神力」で何とかなると言うのはおかしいですよね。

人間にとってのエネルギーの補給は、まず第一に睡眠や食事といった身体的な行為で、そこに好きなことをするだとか好きな人たちと過ごすといったことが加わります。自分が気持ちよく生活するための方法を知る、というのは大切なことです。それは自分のエネルギーの上限と残量を意識して、エネルギーが尽きてしまうような生活をしないということです。

何かが有限であるということを知るのはすごく大切です。私たちはなんとなく自分が平均寿命くらいまでは生きるのかなと思っていますが、もし病気で余命が半年であるとわかったら、残りの人生で何を行うかについて、きっとものすごく真剣に考えるはずです。お金にルーズだったりするのも、この「限りがある」という事実を実感していないことから生まれます。それは単純に財布の中身や預金残高に限りがあるという意味でなくて、普通はお金というのは自分の時間とエネルギーを費やして得るものであり、これはつまり命を削って得たものなのだということです。

あなたが付き合っている人、やっている仕事、あなたを囲む娯楽と暇つぶし、これらは本当に重要ですか? 限りがあるということを理解したなら、取捨選択や優先順位といった概念が出てくるはずです。あなたはすべてのことをすることはできないし、すべてのものを得ることはできません。腕いっぱいに何かを抱えているなら、別の何かを取りこぼします。

あなたが何かを得るときには、必ずあなたはあなた自身の時間とエネルギーを消費しています。もし、そうして得られたものがガッカリするようなものでしかないとしたら、あなたはそうすることをやめるべきではないでしょうか?

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時間をかけなきゃ何も手に入らない

みんなすぐに何か手に入ると思ってる

この世で何か価値のあるものを得たいと思ったときに必ずぶつかるルールがあって、それは「価値のあるものを得るためにはすごーく時間がかかる」ということです。大切なものがすぐに手に入るはずがないのに、簡単に手に入るようなものが貴重であるはずがないのに、みんなみんな本当にすぐに何かを欲しがります。

人間が1日でできることっていうのは、現実にはびっくりするほど少ないです。だから3ヶ月間積み重ねたことも意外と少ないし、1年間積み重ねたことだって改めて見返してみればやはり少ないです。私たちは自分があまり多くのことをやっていないということを自覚していなくて、本当に少しのことをやっただけで、手に入らないという事実にがっかりして諦めたりしてしまいがちです。

たとえば英会話を身につけたいと思ったとき、「3ヶ月でできるはずだ」と思う人はいないと思います。たぶん、ほとんどの人は10代の早いうちから義務教育で実際に英語というものに接するので、それが簡単に身につくものではないという事実を理解するのでしょう。人間はその手で長い間取り組んだことのあるものに対しては、比較的現実的な見方をすることができます。

ただ、これは例外的なほうで、自分の人生で本当にやるべきことを見つけるとか、本当に大切な人間関係を見つけるだとか、そういう抽象的で大きくて困難な課題に対しては、やはり人間はどこかで甘く見積もりがちです。「そんなにあっさり手に入るとは思ってないよ」と口では言うとしても、頭ではわかっていると言っても、心のどこかで「案外そのうち見つかるんじゃないか」と思っているんです。

諦めなければ成功するのか?

「決して諦めるな」というのは、スポーツやビジネスの分野での成功者がよく言うことですね。ただ、これには生存バイアスというのがかかっていて、最終的に自分が成功したという事実がわかっているからそう言っているだけです。実際にはスポーツでもビジネスでも、圧倒的に多いのは勝者ではなく敗者です。人には適性というものがあるし、勝負の流れはいつでも偶然にも左右されるので、限りある人生を負け戦に費やすということはするべきではないです。

成功が約束されることは決してありません。「努力は必ず報われる」と言えば、それは嘘を言うことになります。しかし、何もしなかった者が何かを得るということも、基本的にはないのです。

いつでも成功を信じてポジティブでいろというのは無理で、強い信念を持つということは現実に対処する柔軟さを失うということでもあります。だからそういう極端で無理のある立場を取らず、淡々とやりましょう。自分が何かをするということは、不確実だし間違っているかもしれないけれど、とにかくそうすることの中にしか意味のあることは見つからないんだ、ということを信じて、淡々とやるんです。何か価値のあるものを得ようと思ったら、そうするしかないように思います。

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離れた場所からなら何だって言えるもんな

ステージに立った人しか知らなこと

私は楽器を弾く人なので、たまに人前で演奏をすることがあります。今の楽器を本格的に始めて8年ほど経つのですが、以前からずっと変わらないことがあります。人前でライブするときって、指が震えるんですよ。足が震えることもあります。自分の意思とはまったく無関係に、勝手に震えるんです。

私は技術系の人間で、学生の頃から、大勢の人前で喋って何かを発表するということにあまり抵抗がない人でした。そうか、自分は本番でも特に緊張しないほうなんだな、と思っていました。しかし、楽器の演奏に関しては違いました。本当に、めちゃくちゃ緊張します。緊張しないでいいと自分で言い聞かせたとしても、他人からそう言われたとしても、これはどうにもなりませんでした。

私がここでいうライブっていうのは、プロのミュージシャンがやるような大規模なライブとはもちろん違って、もっと言えばアマチュアのバンドマンがライブハウスでやるようなライブとも違います。音楽好きのマスターがいるさほど広くないカフェで、お客さんの半分は顔見知りのようなもので、お金も取らないようなライブです。ただその音楽が好きというだけで集まっている地域のコミュニティなので、緊張する必要なんて全然ないんです。それでもやはり、緊張するなと言っても無理な話なんです。

誰だって目の前の世界がすべてだ

たとえば、学校での人間関係に悩んでいる高校生の女の子がいるとします。学校っていうのは本当に狭い世界です。10代を終えて社会に出て、自分で自分の環境や付き合いたい人間を選べるようになった大人なら、そんなことで真剣に悩む必要は全然ないんだよ、と思うでしょう。実際、私も10代の頃の悩みなどを思い出すと、「あんなこと本当は全然重要じゃなかったな」と感じます。

でも、その子にとって目の前にある「学校」という世界は、紛れもない現実なんです。「視野を広く持とう」というのは何も間違っていないアドバイスですが、ひとつの世界しかその目で見たことのない人に、別の世界を想像しろと言うのは無理な要求です。

何かの物事に対して第三者であるということは、客観的な判断ができるということでもありますが、私たちはその中に生きている人たちの経験する生々しさというものを軽視しがちです。ブラック企業に勤めている人に「早く抜け出して転職したら」と言うのもそうですし、誰かと依存的や支配的な関係で泥沼になっている人に「別れたら」とか「離婚したら」と言うのもそうです。

目の前で人が悩んでいるときに何が言えるか、というのはすごく難しい問題です。大人になったら、自分のことは最終的には自分で決めるべきでしょう。だからといって、見ているだけで何も手を貸さないというのはひどい話ですし、他人の力になるということは難しいにしても不可能ではありません。他人の領域にどの程度立ち入るべきか、ということにわかりやすい正解はないので、いつでもちゃんと考え続ける必要があります。

悩みを聞いてほしいというのは別にアドバイスがほしいわけではない、というのはよく言われることですね。私が人の話を聞くときは、とにかく相手に喋ってもらうようにして、具体的な判断は差し控えて、あくまで「自分はそうだったよ」という前提で自分の経験を話したりする、といったことを意識しています。これが正解なのかは、正直わからないです。

相手の苦しみを軽視しない

ステージに立つ人の気持ちは、基本的にはステージに立った経験のある人にしかわかりません。離れた安全な場所からなら何だって言うことができます。いくらでも無責任に批判したり、けなしたりできるんです。

私自身のライブの経験と、人間関係に悩む高校生という2つの例を出しました。あなたは人前で楽器を弾いてライブをしたことはないかもしれませんが、高校生だったことはあると思います。しかし、大人になって何年かしたら、高校生の悩みにリアルに共感するということはおそらく難しくなっているはずです。私たちは自分で経験したことすら忘れてしまうんですね。

他者の理解というのはどこまでいっても難しい話で、人と付き合って何かをしたり言ったりするときに、本当にこれでいいのかなという疑問が消えることは決してありません。目の前の人の悩みを100%理解することはできないにしても、せめてそれを軽視したりはしないようにしたいですね。

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原石を探す、原石を磨く

才能を秘めたもののことを「原石」と呼ぶことがありますね。この言葉はひとつの事実を反映していて、それは原石が宝石として光り輝くためには、必ず磨く必要があるということです。

才能は自分の内側にありますが、それを形にするものは常に自分の外側にあります。個性というのは、何かを真剣にやっていれば必ず勝手に出てきます。ただ、何かを真剣にやるというのはとても大変なことです。あなたがギターで自分を表現したいなら、あの難しいFのコードを押さえられるようになることが必要で(みんな一体どういう指をしてるんですか?)、これは個性云々というより純粋な修行の過程です。

あなたが何に向いているのかということを教えてくれる人はいないので、原石は磨くことからではなくて、まず探すということから始まります。そしてこれは、簡単に見つからないことを覚悟するべきです。当然ですね。きっと長い過程になります。

何も埋まっていない鉱山で何かを探したとしても、どうにもなりませんよね。これはある程度までは意識すべきことで、自分にとって才能のない領域よりも、才能がある領域を探すべきです。ただ、根本的な意味ではあなたにとっての鉱山はあなた自身の心身だけで、これはもう生まれた時点で確定しています。少し掘ってみたけど、何も出てこないようだから他の鉱山を探そう、ということはできないんです。

最終的に、あなたが何者になれるかというのは、あなた自身の心身に規定されています。ほんの10センチ掘り下げただけで、自分には何もないなんて思わないでください。原石が出るまで掘り続けましょう。出たら磨いてください。磨いたのに大して輝かなかったのなら、また別のものを探してください。何回でも何回でもやってください。

あなた自身がそれをやらないなら、他に誰もそれをやってくれません。早くやりましょう。

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