あなたの夢はいつか本当のことでなくなる

すごいスピードで古くなる

「アイデアは貯金すると古くなる」という言葉があります。創作や表現という活動に携わっており、自分の手で何かをつくるということをしたことのある人には、おそらくピンと来る言葉なのではないかと思います。

私のように文章を書く人だと、パソコンとスマホのメモ帳に書きかけの文章の断片というのがたくさん入っています。こうした文章の断片は、少し時間が経つと必ず「古い」と感じられるようになって、捨てる必要が出てきます。苦労して書いた文章であっても、必ず容赦なく捨てる必要があります。「これは今の私が本当に言いたいことじゃないな」と感じられて、今の自分が表現すべきことではなくなったということが直感的にわかるからです。

面白いことに、一度きちんと完成させた文章であれば、それが1年前のものであってもそこまで「古い」とは感じられません。未完成のまま放置された断片についてだけ、必ず「古い」と感じられるタイミングがあって、それは1週間くらいの時間でも簡単に起こるんです。

特定のアイデアについて、時間をかけて温めるということはあります。漫画や小説のプロットであれば、それなりに大きなものになるはずなので、考えるための時間は必要です。ただ、それは有機的なものとして自分の中で徐々に成長させているときにだけ意味があって、作りかけや考えかけのまま成長を止めたものというのは、やはり古くなります。

本当でなくなる日が来る前に

「いつかヨーロッパの各国を旅して回ってみたいな」みたいな夢ってありますよね。「イラストを描くのは好きだけど、ちゃんとした漫画という形式にも挑戦したいな」とか、「ピアノを弾けることに昔から憧れていたな」といったものでもいいです。

これですが、本当にすぐにやったほうがいいです。いつかじゃなくて、今やってください。今すぐ準備してください。「やりたいな」という気持ちは今のあなたに発生していて、それはいつか古くなります。必ず古くなります。今のあなたにとってそれは本当のことだけど、今それをやらないなら、いつかあなたにとって本当のことではなくなるんです。

人間にとって、何かを本気で感じるということはすごく貴重です。そうした気持ちは、起こそうと思って起こせるものではありません。本気で何かをやりたいと願う気持ちが、人生で何回発生するでしょうか? たぶん、そんなに多くはないはずです。

やったという経験であれば、それは大切な思い出になります。「やらなくて後悔するよりやって後悔しろ」という言葉をときどき聞きますが、やらなかった後悔というのは、何か朽ち果ててしまった残骸が心の中にずっと残るということです。もしかしたら、時間が経ったあとに何かの偶然でそれをやる機会に恵まれるかもしれません。でも、もうそのときにはそれは本当のことではなくなっていて、そこにあるのは義務感のようなものだけで、行き着くのは「自分は本当にこんなものが欲しかったんだっけ?」という気持ちです。

何事も若いときのほうが可能性があるし、その後の人生に効いてくるというのは事実です。ただ、死ぬ直前でもない限り、人生にはいつでもその先があって、学生から社会人になろうが中年になろうがそれは変わらないはずです。もういい年だから、なんていうのはすごく残念な言い訳です。昔は100個だって可能性があった、けど今は30個くらいしか可能性がない。だからってその30個をすべて捨てますか?

今やってください。今やりたいと思っていることを、本当に意味のあることにできるのは今だけです。

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あらゆる物事は面白くすることができる

プロレスが面白いとは思わなかった

以前、身体を壊して数ヶ月ほど寝込んでいたとき、毎晩プロレスの中継を見ていたことがありました。私の部屋にはテレビがないので、手持ちのiPadを枕元の壁に立てかけて、動画配信の無料アプリでプロレス中継の専門チャンネルに合わせます。私はこのとき、病気でメンタルがかなりボロボロで、不安が強くて眠れないことも多かったのですが、プロレス中継を見ていると何故か心が落ち着いたのです。

プロレスを見ると心が落ち着くなんて、思い出してみると随分ヘンな話です。私は元々、スポーツにも格闘技にも特に関心がなくて、そもそも荒っぽいことは嫌いなタチです。プロレスの中継を見たきっかけは、単純にやることがなくて(というか何かをする気力というものがまったくなくて)、たまたま開いた動画配信アプリの中にプロレス中継のチャンネルがあったというだけの話でした。

プロレスに関しては、昔から少し不思議に思っていたことがありました。私の知っている漫画家やミュージシャンのうちの何人かはプロレス好きを公言していて、これが何故か表現というものにすごく真摯に向き合っている人たちだったのです。どうもプロレスの中には私がまだ理解していない何かがあるらしいぞ、と感じました。そして、体調を崩してベッドに横たわりながらプロレス中継を見るようになったとき、この疑問に対して多少なりとも答えのようなものを見つけた気がしたのです。プロレスというのは、確かに面白いのです。

「プロレスなんて台本があるんだろ、八百長じゃないか」というのは、映画に対して「こんなの作り話だろ」と言うとか、あるいは舞台を前にして「みんなただの役者じゃないか」と感じるようなものです。つまり、それはまったくの野暮ということです。私はプロレスというものについて全然詳しくないので、これはひとりの素人としての私の理解なのですが、プロレスというのはリングを通してある種の物語やキャラクターを見せるものなのです。それは感動的であったり、一見するとバカバカしいものであったりするのですが、先入観なしにこれを見てみると、実はなかなかしっかり考えられたエンターテインメントだなと感じます。

あるプロレスラーは「俺はホウキ相手にだってプロレスができる」と言ったそうです。これはすごく面白い言葉で、どんな素材であっても観客の前で面白く演じて見せるぞ、ということです。芸術の分野で活躍している人だって、こんなことはなかなか言えないでしょう。

プロレスは最強の格闘技だ、なんて言われることがあります。これもさまざまな武術と比べた客観的な強さだとか、そういう話ではないんです。その軸は「面白い」ということにあって、「プロレスは最強の格闘技だ!」と言われたときに、何もかも無視して「そうだそうだ!」と勢いだけで応じさせてしまうような、そういう魅力の話なんだと思います。

面白さを探す、面白く見せる

「どんな素材であっても観客の前で面白く演じて見せるぞ」というのは、表現というものに対して、かなり本質的なものを示唆しているような気がします。

テレビやネット上の動画を見るとき、トークが上手い人というのはいますよね。彼らが扱っている話題そのものに特別興味深い点があるのかというと、そうとは限らなくて、これは何かを「面白く話す」というひとつの技術があるということです。エッセイストが書くことだって、大抵は身の回りにあるようなごく普通の事柄で、そこに個性を加えているのはその人独特の着眼点や感じ方、言葉の選び方といったものです。

あるいは、普段は学問の世界で専門的な研究を行っている人が、一般向けにわかりやすく書いた新書を出版することがあります。これがなかなか面白い場合が多いのです。研究というのは大抵、すぐに世の中で役に立つ(簡単に言えば儲かる)という性質のものではありません。彼らも研究のためには予算を得る必要があるので、「自分の研究分野は興味深くて有用なものなのだ」ということを説得力を持って世間に表現することができるなら、それはすごく有用なスキルであるはずです。

もちろん、内容のない話を無理に飾り立ててもなんにもなりませんので、中身が伴っているというのは大前提です。中身のない話を大きな声でする人というのは確かにいます。ただ、逆に本当は他人にとって価値のある存在だったり個性的だったりする人が、周りにうまくアピールする術を持っていないために埋もれているというケースも世の中にはあるはずで、それはすごくもったいないことだと思うんです。

おそらくですが、あらゆる物事は面白くできるのではないでしょうか。世の中を見渡して「つまんないことばっかりだな」と思うのは、感受性の欠如です。何かの中に面白さを見つける、それを面白く表現できるというのはすごいことです。

それは会社でプレゼンするときに役に立つとか、そういう安いレベルの話ではないんです。こういうことが当たり前にできるようになると、人生がもっともっと楽しくなるような気がします。

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放っておくと物事はすごく複雑になる

北国の人間は、雪かきによって「やったところで何かが良くはならないが、やらないともっと悪くなる」という物事があることを知る

出典不明

単純さの原則

テクノロジーの世界でもビジネスの世界でも軍事の世界でも、「単純にしておけ」というのはよく言われます。単純であることは本質に近く、適切である可能性が高いです。単純であるというのは、安易でテキトーであるということではなくて、核になる大切なものだけを残して、余計なものを混入させないということです。

これが何故いろんな分野で口を酸っぱくして言われるのかというと、「放っておくと物事はすごく複雑になる」という性質があるからです。仕事机の上とか自分の部屋って、放っておくと散らかりますよね。心だってあれやこれやの悩み事でいっぱいになります。人が手入れしなくなった庭や畑は必ず荒れます。これはもう世界の法則に近くて、誰もそれに逆らうことはできません。放置されたものは必ずカオスへと向かいます。

人の人生も放っておくとどうでもいいような物事でいっぱいになるので、ときどき片付ける必要があります。混乱を整理して、いらないものを捨てて、本当に大切なものだけを残すんです。断捨離やミニマリストといった概念がいっとき流行ったのは、この「捨てる」という行為の重要性にあって、これは単なる一時の流行として片付けていい考え方ではないと思います。

人生を単純にする

生きるということは選択と判断の連続で、ひとりの人間が抱えられるものは有限なので、何も捨てないということはできません。捨てることを拒否すれば、あなたはゴミ屋敷の中で暮らすことになって、そこで何か意味のあることを行うというのはまったく不可能になります。

片付けというのは終わりがなくて、簡素な部屋で生活している人の写真なんかを見せてもらうと、想像を超える綺麗さにびっくりすることがありますね。あなたは単純にするということの重要性を理解して、自分の生活を単純にした状態を想像することができますが、実際のところ、それはもっと単純にすることができるのです。あなたの想像以上のことができます。これはかなりエキサイティングなことです。

人生からいらないものをすべて捨てて、削ぎ落としたら、何が残ると思いますか? そこにあるのは本来のあなた自身ということです。これは実は、崖から飛び降りるような不可逆な過程です。一度捨てたものが戻ってくるなんて都合のいい話はありません。怖いでしょうか?

いいでしょう、やってみてください。私はその面白さを知っているので、それをしようとしている人がいたなら、笑って背中を押すことでしょう。いいからさっさと飛び込んだらいかがですか?

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不幸ぶってるとか実際に不幸だとか誰が決めるんだ?

私が極端に身体が弱いので、丸一日何かをして過ごすということが基本的にできません。頭を使うにしろ身体を使うにしろ、まともに動けるのはせいぜい半日くらいで、あとは静かに身体を休めている必要があります。夜もかなり早い時間から消灯して休む必要があり、そうしないと翌日がもっとひどいことになります。

こんな身体で世の中でまともに働けるはずがないので、私の職業的キャリアというものはかなり早い段階でボロボロになっています。外に出てどこかに行ったり人に会ったりするのは、楽しい反面しんどいことであり、大抵の場合はしんどいということのほうが上回ります。旅行だって楽しくないはずはないのですが、一日中知らない土地で過ごして夜は慣れない環境で眠るというのは心身への負担がかなり強いので、ほとんど行かないです。

すごく理不尽で不公平なことだと思います。人は先天的に障害を持っていたり、後天的に重い病気になったりしますが、これは本当にまったく何の意味もない偶然で、たまたまそうなったからそうなったというだけのことなのです。どんな病気を抱えようとも人は生きていなくてはならないし、死ぬときが来たら黙って受け入れて死ななければなりません。

たとえば現代でも、発展途上国などでは水道や電気がろくに使えない地域が存在しています。それに比べたら、私の生活はまだ楽なほうだと言うことはできます。ただ、途上国の人たちと私ではひとつ違うことがあって、それは私が周りにいる「普通の人」の生活というものを日常的に嫌でも意識させられるという点にあります。

自分が毎日、あまり清潔でもない重たい川の水を汲みにいっているその横で、綺麗に整備された水道から清潔な水を出しっぱなしにして、それをまったく気にかけることもなくぼんやりと歯磨きしている人を見たらどう感じますか? 私が日々感じているのは、そういうことなんです。てめえ、人生を無駄遣いしやがって

まあ、不幸ぶっててもなんにもならないし、そういう人間を好きな人もいないと思いますから、この気持ちは普段は心の奥にしまってあります。人には人の苦労があるはずなので、周りの人間がみんな能天気に生きてるとか、そんなふうに単純化するつもりもないです。

これを読んだあなたが、もし一定の健康や若さ、職業生活や人間関係を持っているのなら、どうかそれを大切にいただけることを希望します。それは本当に、本当に貴重なものなんです。

現場からは以上です。

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愛が知りたければ動物と暮らせばいい

私が実家で暮らしていた10代半ばの頃、1匹の犬が家族に加わりました。パピヨンという小型の犬種で、真っ白で長い優雅な毛と、大きな耳が特徴です。名前は「まる」といいました。まるは20代の初めに私が実家を離れてからも元気にしていて、そのまま10年以上生きました。亡くなる直前に急激に痩せてしまったのが少し痛々しかったですが、大往生だったと思います。

愛というものを考えるとき、私が最初に思い浮かべるのは恋愛に関する思い出などではなく、この犬のことです。私が愛というものを実際に知ったのは、この犬の存在によってではないかと思うのです。

動物と暮らすということが面白いのは、そこに人間関係にまつわる余計なものがまったく存在していないからです。余計なものを除くと、本質が残ります。動物と一緒に暮らしたところで、人間にとって実利的なメリットというのは何もありません。それはお金を稼ぐのに役に立たないし、どちらかというと反対にお金を食われます。動物にとっては、人間社会で偉いとか立派だとかいうことは何も意味もありません。動物と仲がいいということは、他人に対する自慢にはなりません。彼らは言葉の世界の中には生きていないので、彼らを説得することはできないし、逆にあなたのことを論理的に説明したり、あなたの立場を正当化したりしてくれるものは何もありません。そこには複雑で抽象的なものは何も存在しません。

彼らが私たちにとって尊いのは、ただそこにいるという理由だけです。そして彼らの前では、私たちもまた、ただそこにいるだけの存在になります。ただそこにいて、関係して、生活しているだけです。一緒にいて、大切なだけで、ただそれだけなのです。これが愛でなかったら、どこに愛があるというのでしょうか?

動物と暮らすというのは、現実には居住環境の制約があるので、たとえば単身者向けのアパートで大型の犬を飼うというのは難しいです。生き物は死ぬまで生きますので、毎日きちんと面倒を見て、病気や事故などの危険を避けるようにするというのは、それなりの責任を負います。鳴き声がうるさいといったことも、もちろんあります。

それでも、これはそうするだけの価値があると思います。混じりっけのない関係というものを実際に体験することで、あなたの人間関係、人生観や人間観は一変する可能性があります。

「犬を飼ったら人生が変わった」ということは、普通は言われません。ただ、犬と一緒に暮らしたことがある人たちは、はっきりと言葉で意識しているわけではないにしろ、このことを知っているのではないかと私は思います。「犬を見ろ、そこに真理がある」というのは別に冗談ではありません。この世の中で、真理というものが声高に宣伝されることは決してありません。それはいつでも静かにそこにあるのです。そういうものなのです。

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