好きなことと向いていることは違う場合がある

私が何年も楽器に打ち込んできた結果としてたどり着いたのは、残念ながら「なるほど、自分には才能がないのか」という結論でした。ここで得られた教訓は、好きなことと向いていることは違うことがあるんだな、ということです。

鍛錬せずに物事が身につくことはないので、もちろんちゃんと練習しました。仕事帰りの公園で毎日練習して、休日にも近所に出かけて練習して、人前でのライブも積極的にこなしました。そうした積み重ねを何年も続けました。でもね、いつまで経ってもミスタッチはなくならないし、私には歌心っていうのが根本的に欠けているんですよねえ。

何かが好きだというとき、実現する方法はひとつじゃないです。絵を描くことが好きな人がいたとして、画家として食っていくというのは、客観的に見てかなり高いハードルです。ただ、芸術の分野の多くには、プロ志向から趣味のレベルに至るまで、講師の仕事が存在しています。美的センスを活かしたデザイナーのような仕事は、経済の中ではもっと一般的な仕事です。画材が好きなら、画材屋さんもあれば、そこに並んでいる製品を作っているメーカーもあります。

こうした会社の中には営業も事務もあるので、柔軟な発想を持ちさえすれば、好きなことに関わって仕事をするというのは、実はそんなに難しい話ではありません。何が好きかということを業界に合わせて、何に向いているのかというのを職種に合わせるというわけです。それは東京か、ある程度大きな地方都市だけの話では? という指摘はあって、確かにそういう面はあります。ただ、「好きを仕事にする」というのが完全に不可能だと諦める必要もないということです。

私は残念ながら、大好きな音楽を仕事に関係させることはできませんでしたが、そこまで嫌いなことを仕事にしてきたつもりもないので、これはこれでよかったのかなと思います。

現実はままならないものですが、現実を楽しくしていく方法は、やり方次第で無数に存在します。仕事も生活も、なるべく工夫して楽しくしていけるといいよねって思います。

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頑張ったときのアルバムを作っておこうぜ

よかったこともどんどん忘れる

人生って、虚しさや徒労感との闘いだと思います。おれの人生なんて何の意味もないよな……という暗い気持ちに沈むこともありますし、も〜嫌になったから全部投げ出したーい! ってジタバタするのもよくあることです。

人って自分が頑張ったこととか、楽しかったこととか、褒めてもらったこととか、そういうのって放っておくとけっこう忘れていきます。なので、頑張ったときや楽しかったときのアルバムを作っておこうぜ、というのを提唱したいと思います。

私は特にカメラを趣味にしているわけではないので、日常で写真を撮るのに使用しているのは、もっぱらiPhoneです。iOSの標準の写真アプリには、好きな写真にハートマークをつける機能があります。ハートをつけた写真は「お気に入り」というアルバムで簡単に見返すことができるようになっています。

私は楽器を弾く人なので、音楽関係のイベントのときの写真を見ると、たまにしかないお祭りの空気感を楽しく思い出せます。楽器関係以外のお出かけについてもそうです。珍しく県外に遠出したときの記録もあれば、近所をお散歩しているときに撮ったお花のように、なんてことのない景色もあります。外食で特においしかった料理の写真もあれば、いっとき妙にハマっていたお菓子の写真も出てきます。

また、我が家には白文鳥のふみ子がいます(「モチモチ怪獣ふみ子の話 (2023.10.6)」を参照)。バイオレンス文鳥のふみ子はときどき容赦なくカミカミしてきたり、こちらの体調がよくないときにうるさく騒いでしまうこともあるので、そういうときはちょっと憎たらしく感じることもあります。これは「身近すぎて大切なものが見えなくなる」という、よくある一例です。そうした場合にはちょっと深呼吸して、ヒナ時代から立派に成長した現在に至るまでに撮り溜めた写真を見返すと、ちびっこ怪獣であるところのふみ子が、実はラブリーで尊い存在であるということを改めて認識することができます。

頑張った証拠を残す

ここまでに述べたのは、楽しかった記憶を写真で残すということです。もうひとつは頑張ったことに関してで、私の場合は写真以外の手段を取っています。

私がこの場所で書いているブログには、「おすすめの記事の一覧」というページが作ってあります。このページの目的は、第一には読者に最初に読んでもらうためのベストアルバム的なものを用意しておこうという意図ですが、実は自分の記事を自分で読み返すためにも使用しています。

長期的に何かに取り組んでいるときに、自分の能力や素質を疑ったり、輝いて見えた目標がふと色褪せて見えたりすることはよくあります。今の私は一定の野望を持って文章を書くということに取り組んではいますが、これを書いている2023年12月現在では、書くという行為は私に対して1円の利益も産んでいません。

現代は短文のSNSと動画コンテンツの時代で、その動画ですら、ほんの数秒や十数秒のショート動画しか見てもらえないような有様です。どうせみんな長い文章なんて読んでくれないんでしょ……という気持ちは常にあります。だいたい、私自身もSNSでブログ記事のリンクが流れてきてもあまり開かないので、何も文句は言えないのですが……。

こういった無力感に襲われたときには、自分が大切に思っていることをどうにかうまく表現できたな、という過去の記事を読み返します。そうすると、自分には世間に対して言いたいことがあって、多少なりともそれを形にして表現することができるんだ、そうすることにはきっと何か意味があるはずだ、という気持ちを思い出すことができるんです。

あなたが何か創作活動に打ち込んでいるのなら、自分が「うまくやれた」と感じられる作品を一箇所にまとめておくといいです。時系列で並べるようにすると、努力の結果、つまり自分が成長しているという事実が一目でわかるので、これは初心を思い出してモチベーションを取り戻す上で有効に働くはずです。

創作ではなくて何かの勉強などの場合でも、単純にノートを残しておくというだけで、自分がこれだけ努力したという証拠を目に見える形で持っておくことができます。

再び前を向く

いつでも明るく前向きに頑張るというのは、人間にとっては不可能な要求です。勉強でも仕事でも、ふと嫌になることはよくありますし、人間関係に疲れてしまうということもあります。そういうときに、ちょっと我に返るための方法を用意しておくといいと思います。

人生は山ほどの辛いことと大変なことで構成されていますが、もちろんそれが人生の全部ではなくて、楽しいことや意味のあることは過去にも無数に存在したし、これからも存在するはずです。気分が落ちたときというのは、それが見えなくなっているだけです。

社会人としてある程度の年齢を重ねると、10代の子たちが持つ輝きを羨ましく感じるようなこともあります。しかし、宝物のような記憶を内側に抱えて生きるというのは、年齢を重ねた者の特権でもあります。

このような「アルバム」の存在は、あくまで前を向くためのものです。単に過ぎ去ったことを美化して、昔を懐かしむということではないです。そういうことは、身体が完全に動かなくなって、もうベッドでお迎えを待つだけだというときが来るまでしないでください。まだ早すぎます。

自分の中にある大切なものを思い出して、元気が出たなら、もう一度頑張れます。そうしてアルバムをどんどん充実させていくといいと思います。辞書みたいに分厚くて重たいアルバムを作りましょう。

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人の長所を拝借する

「学ぶ」の語源は「まねぶ」、つまり「真似」のことだという説があるそうです。幼い子どもであれば、周囲の大人たちの言うことを少しずつ真似することで言葉を覚えますよね。美術ならば名画の模写は上達に効果がありますし、楽器を弾くときにも上手いプレーヤーの演奏をコピーすることには意味があります。

偉大な作家でも音楽家でも、完全にオリジナルな存在というのはいません。文学や音楽史に詳しい人ならば、この人物が強く影響を受けているのはこの時代のこの人とこの人だな、といったことを言い当てることができると思います。

これは何も、芸術に限った話ではないと思います。「人の人格は、その人の周りの最も近い位置にいる5人の平均である」という言葉を聞いたことがあります。私の見解はこれより広くて、人が影響を受けるのは5人どころではないし、現在近くにいる人だけではなく過去に関わった人からもちゃんと影響を受けているはずです。現実の知り合いだけでなく、本で読んだ偉人であったり、大好きなフィクションの中の登場人物であることもあります。

私はこうして自分の考えを文章として書いていますが、思想的なバックグラウンドとして誰がいるのかというのはすぐに挙げることができます。何かを語るときには音楽やコンピュータの話でたとえ話を出す癖があって、これも私の中の引き出しです。私という存在は、自分が素敵だなと思ったもの、鋭いなと思ったもの、おかしくて笑えるなと思ったものの寄せ集めでできています。

人の長所はどんどん拝借するといいと思います。他人に対する上手い気遣いを見つけたなら、具体的にそのまま真似てみましょう。思想や芸術的な表現に関することであれば、形式を真似るのではなく、エッセンスだと感じられるものを自分の中に取り込むといいと思います。同じ人間はいないので、最終的な表現は、元になった人とは異なるものになるはずです。

みんなの長所を組み合わせて、自分だけのスーパー長所人間になってください。

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熱くはないが、とても強い気持ちについて

勝ちたいと望んだから勝ったのか?

スポーツなどの勝負事において、「気持ちで勝つ」ということができるのは、基本的にはフィクションの世界の出来事です。こちらがすごく強い気持ちを持っていたとして、では相手は強い気持ちを持っていないのでしょうか? それはもちろん違います。同じようなレベルでぶつかる人なら、やはり同じくらい強い気持ちを持っている人のはずです。

将棋の世界でプロ棋士になるような人は、ほとんど全員が「自分ほど将棋の好きな人間はいない」と思っているかもしれません。棋士を志すような人は、地元では小さい頃から負け知らずで、天才と呼ばれてきたような人ばかりです。しかし、実際にプロ棋士になれるのは、年間にたったの4人くらいなのだそうです。この門の狭さは難関大学の比ではありません。そこでは、圧倒的な才能を持った人が、圧倒的な努力をして、それでも勝ち残ることができなかったという状況が存在しているはずです。

強い気持ちを持っていたからって、現実の世界で勝てるとは限りません。では、強い気持ちを持つことは無駄なのでしょうか?

あなたの中の石の塊

私が最近になって「なるほど、そういうことだったのか」と気づいたことがあります。それは「気持ち次第ではなんともならないという現実があるからこそ、なんともならない現実に立ち向かうためには、強い気持ちが必要とされる」ということです。

人間って、ときどき感情が揺れたり弱くなったりしますよね。会社で仕事を頑張っていても、何か個人的な夢に向かって密かに努力していても、「頑張ったって結局は成功しないし、周りから評価もされないんじゃないか」とか、「こんなことしても何も意味がないんじゃないか」っていう気持ちになることはあります。落ち込んだときの「どうせ無駄なんだ」という感覚はすごく生々しく、強い実感として起こります。人生は無意味だ、って思うことはありませんか? 私はもう、何百回そう感じたかわからないです。

人生の意味というのは主観の問題なので、客観的に「あなたがこれをすることは世界にとって重要なんだ」と保証してくれるものは何もありません。誰かが心から重要だと思っていることは、他の誰かにとってはどうでもいいことである場合が多いものですし、人のやることなんて100年もすればそのほとんどが忘れ去られます。誰もあなたの目標の大切さを約束してくれません。そうしたときに拠り所になってくれるのは、やはり気持ちを強く持つということしかない気がするんです。

これは盛大に燃える炎のような熱い気持ちというよりは、静かに、しかし断固として存在する石の塊みたいな気持ちが必要になると思います。では、そうした気持ちはどうしたら持てるのかという話になりますね。

これはおそらく方法論ではどうにもなりません。ただ、人間は心の底に何かひとつ、そのような気持ちを生まれたときから持っているのではないかと、個人的には思います。自分が心から好きなこと、本当に大切だと思っていること、そういうものがきっとあるはずです。それは「絵を描くことが好きなんだ」という具体的な対象よりも、もう少し微妙で抽象的な感覚として存在すると思います。

自分の中を奥の奥まで掘り下げて、それを見つけるんです。人間はそのようなものを探すために生きているのではないかな、と思います。

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大人になったほうがいろんな友達ができて楽しい

似ているから好きなのか、違うから好きなのか

人と人が仲良くなるときには、似たもの同士というパターンと凸凹コンビというパターンが存在します。つまり、性格や趣味がよく似ている人同士が一緒になることもあれば、性格傾向が正反対で趣味も全然違うという人同士が、お互いを補い合うようにして上手に関係を築くこともあります。

どのような場合でも、仲良くなるときは仲良くなるし、そうならないときはそうならないということですね。最終的にうまくいっているのならどっちでもいいわけです。どちらかといえば、似たもの同士のほうが普通によく起こるパターンのような気がしますが、何か特別で面白い化学反応が起こるのは凸凹パターンに多いように思います。

世の中には完全に同じ人は絶対にいないし、同じ人間である以上、完全に異なっている人というのも実は存在しません。異なっている中でも、心の中で大切にしている部分が共通しているとか、あるいは自分が持っていない特性を鋭く持っているような場合、その人は興味を惹かれるものとなりやすいようです。自分に似ているから好きだというのも、自分にないものを持っているから好きだというのも、どちらも理屈としては筋が通っています。

こういうことは、後付けで分析できるだけの話です。狙って作れるような関係はまずないし、あとから考えれば「どうして自分はこの人とすごく仲良くなったのだろう」と不思議に思うようなことがほとんどだと思います。普通の人間関係は、必然というよりは偶然でできています。

大人って楽しいじゃん

人付き合いにおいては、ある程度「この人はこういうタイプの人かな」と目星をつけることが有効だったりする一方で、相手をステレオタイプに単純化して扱うことは避けるべきです。よーく考えて相手の理解に努める一方で、人間の存在もそれらの関係も、本質的に分析不可能なのだというような見方も持っておく必要があります。

年齢を重ねるということについて、面白いことがひとつあって、それは自分が理解可能だったり許容可能だったりする人間の範囲がどんどん広がっていくということです。高校生の頃だったら絶対につるむことはなかっただろうなと思うような人とも、大人になれば何の抵抗もなく仲良くなれることがあります。これは人間性の成熟の一面だと思います。

同年代の人間がたくさん集まりつつ、集団の構成が定期的にシャッフルされる学生時代とは違い、大人になると新しい友達が作りにくいというのはある程度まで事実です。ただ、相手の中に面白みを見つけるとか、自分らしく付き合いながら上手に相手を尊重するとか、そうしたスキルは明らかに大人のほうがよく身につけているはずです。大人のほうが、ずっと人間関係を面白くできるはずなんです。

ひとりだけで趣味に没頭するのも楽しいことですが、根本的な部分での人間にとっての幸せというのは、おそらく人間同士の関係の中にしか存在しないものだと思います。日々行なっている仕事や趣味も、これは人間関係の足がかりなんだ、と捉えてみると面白いかもしれません。

自分が知らなかった世界に生きている誰かを見つけて、そうした人と関係を結んだとき、あなたという存在は変化します。そうしてどんどん知らない世界を知っていき、知らない自分になっていく。それはどんな娯楽よりも楽しいことだと思います。

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