いつでもフルパワーではいられない

我々はロボットではないので……

「人間的」という言葉の反対は何かと訊かれたら、「機械的」と答える人が多いと思います。実はこのように連想されるようになったのは、産業の機械化が行われた近代以降の話で、それ以前は「人間的」の反対は「獣的」だと考えられていたのだそうです。これはなるほど感がありますね。理性的な存在に対立するものが獣だというわけです。

「人間はロボットとは違う」ということは誰でも知っていますが、それでも機械化された世界のものの見え方というのは、無意識のレベルに浸透しています。コンビニで24時間途切れることなく補填されている商品は、生産と物流の努力の賜物だと思いますが、それは現代ではあまりにも当たり前の光景になっていますね。普通の会社員が行なっている9時〜18時定時の8時間労働もそうで、人が毎日均一に8時間(もしくはそれ以上)も集中して働けるなどということはありそうもない話ですが、形式上はそれが普通のこととされています。

生身の身体を持った存在である人間にとって、毎日の時間が均一であるはずがありません。体調が悪い日もあれば、気分が乗らない日もあります。1日に1,000個の製品を生産するラインと比較して、では人間の生産性は日によって800個や1,200個にばらつくのだろうかと考えると、それは少なく見積りすぎです。おそらく、300個や2,500個といった成果の日が普通に存在します。ソフトウェア開発のような知的労働に就いた経験のある人であれば、これはおそらく経験的に知っているでしょう。すごく冴えている日もあれば、全然はかどらない日もあります。

「有意義」を強調しない

平日は全力で仕事をして、週末は全力で遊んで、すべてにおいて有意義な時間を過ごせるのが理想だと思うかもしれません。しかし、それは無理な相談です。ごく稀にそれを実践できているように見える人もいますが、あれは体力おばけなので、人間としては例外です。

普通に会社員をやっていたら、仕事で冴えない日があったとしてもさほど気にしないかもしれませんね。問題は休日です。現代人は「休日を有意義に過ごさなければならない」という一種の呪いにかかっていることがあります。これは特に、普段の仕事にやりがいを感じていないときにありがちで、平日の日中がなんとなく虚しいから、休日くらいは何か意味のあることをしたいと感じます。

人の心は静かな休息を必要とするものだし、すべての週末が非日常で特別というわけにはいきませんから、このような目標は達成できません。人はフルパワーで生き続けることが可能なようにはできていないのです。

仕事を有意義にしたり、休日を充実させることを意識するのは、それはそれで大切です。ただ、人間は目標を達成するためだけに存在しているわけではないし、人生はスコアやレベルを限界まで上げるゲームではないです。もう少し肩の力を抜いて、いいかげんに生きてみることも必要なのではないかと思います。

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書くというジャズみたいな行為について

興味を持ってくれる人は少ないかもしれませんが、私がこのブログを書くときの流れの話をします。面白いのは「書き始めた時点では、自分が何を書き上げるのかはまったく知らない」という点です。

ちゃんとしたテーマを持った書籍を書くのであれば、「これを伝えたい」というポイントを箇条書きなどで挙げた上で、しっかりと構成を練っていくのでしょう。しかしこのブログの記事は、何かワンポイントで面白いことやためになることがあれば、それでいいと思っています。なので、自然とそれに応じた書き方になりました。

私が書くときの流れは、こんな感じです。

  • ほんのワンフレーズの着想を持って、それで書き始めると決める。(この記事なら「あれ? 書き始めた時点だと、何をどう書くのかって実は全然決めてないよね?」というのが着想)
  • 実際に書き始める。あんまり頭では考えてない。ひとつのセンテンスが書けると、次のセンテンスは自然と決まることが多い。つまり、話が勝手に流れ始める。(これは体調と気分に左右されるので、書けないときは何も書けない)
  • 着想から枝が伸び始める。書くという行為そのものによって、自分では気づいていなかった考え方や視点、例え話、表現方法が出てくる。記事が徐々に形になっていき、中心とすべき表現が明確になり始める。(うまくいけば、私がヒップホップに倣って勝手に「パンチライン」と呼んでいる、印象的な言い回しが出てくる)
  • 話の脱線が発生する。つまり、予想していなかった方向に枝が伸びることがある。少しの脱線にとどまれば、そのような表現として残すが、場合によっては、独立した別の記事にすべきと判断してこれを切り出すことや、脱線で出てきた着想のほうを本題として全体を書き直すこともある。
  • 一応最後まで書き上がる。
  • 枝を整える。枝が伸びる過程で、本筋に対してあまり関係がなく、重要でないセンテンスが存在してしまう場合があるので、これを削る。(せっかく書いたのにもったいないと思っても、ちゃんと削る)

というわけで、記事を書く上で最終的に何が出てくるのか、どうまとめるのかというのは私も知らないのです。

書くというのは、ちょっとした即興演奏にも似ています。音楽の即興演奏と違うのは、うまくいかないなと思ったらすぐにやり直せることです。失敗した演奏はお客さんに見せないでいいということなので、これは人前で楽器を演奏するよりもずっと気が楽です。その上で、即興の面白さだけはちゃんと残すことができます。

ちなみに、今書いた即興演奏という例えも、今この場で勝手に出てきたものです。この記事は当初は「書くプロセス」という仮のタイトルだったのですが、「なるほど、書くってジャズじゃん」と思ったので、タイトルも付け直しました。話のオチも考えていないのですが、いや〜勝手に言葉が出てきて主題もオチも勝手に出てくるなんて本当に面白いね〜、というのがオチになりました。

書くって本当に面白いです。わざわざブログを開設しなくても、今はnoteみたいに気軽に文章を書いて発表できるメディアもあるので、みなさんも何か新しいことを始めたいと思ったらやってみてくださいね。

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「愛されたい」じゃないだろ、先に愛せよ

ここで残念な事実について触れます。かけがえのない私を特別扱いしろ! 愛情が欲しい欲しい欲しーい!! と言っている人に愛情が与えられるようには、世の中はできていません。

愛情が与えられるケースには、主にふたつあります。まず、面白いことに、愛情を求めている人間よりも、愛情に頓着していないように見える人間のほうに愛情は与えられる傾向があります。これは「来られても応じないけど、逃げられると追いたくなる」みたいなもので、人間はそういう天邪鬼な性質を持っています。こういう性質を利用した人たらし的な振る舞いにはあまり感心しませんが、とにかく人間はそのようにできています。

もうひとつは、愛情や関心というのは、先にそれを与えてくれた人へのお返しとして与えられることが多いということです。これは常識的に考えてそうですね。相手に対する関心を少し表明して、同じようにこちらに対する関心が返ってくれば、もう少し踏み込んで関心を示してみる。親しい関係は、そのようにして深まっていくのが普通です。

これらは、どちらも「求める」ということ自体に対して応じられているわけではないというのがポイントです。お金や利害関係で取引できるなら、それは真の愛情ではない、というのはわかりますよね。このような性質を理解した上で、何かできることがあるとしたら、それは先に自分から愛情や関心を与えていくということだけです。

結局、何かを得られる人というのは、何かを与えた人だけなんです。通常、この循環の基盤となるものは、最初に与えられる親の愛情です。初めに無条件で自分の存在が受け入れられたという実感が与えられると、今度は他人を受け入れる余地が生まれます。ただ、人の親というのも人間で、完璧な人間はどこにもいないので、きれいに事が運ぶケースばかりとは限りません。親らしい愛情を持たない(もしくは適切に表現ができない)親も実際にいるので、自分は何も悪くないのに不利な立場でスタートラインに立たされてしまったという人も、一定の割合でいます。

「自分はいつも損ばかりしている! みんなずるい!」と思うこともあるかもしれませんが、それは理不尽ですがどうにもなりません。人生が不公平なのはいつものことです。こういうときに愚痴っぽく、恨みがましく生きている人よりも、何事もないかのように前向きに生きている人のほうが、やはり愛情は与えられがちです。

早めに前を向いて、周りの人間を大切にしていきましょう。

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いつまで日曜日の憂鬱を放っておくのかね

あらゆる自己啓発本は「やれ」を複雑に表現したものにすぎない

出典不明

誰もどうしたいのかわかってない

今の自分に完全に満足している、なんていう人はいても少数派だと思うので、大抵の人は「変わりたい」と感じていると思います。それがすごく切実な人もいますし、心の奥底でなんとなくモヤモヤと抱えているけど、日曜日の夜にだけそれが顔を出すんだ、という人もいます。

「心を入れ替える」ということができるようには人間はできていません。今度こそダイエットを成功させようとか、毎晩英語の勉強をしようだとか決心した気持ちが、驚くほど早くうやむやになってしまうということは、たぶんみなさんも経験で知っているはずです。こういうときに意思の力というのは無力なので、具体的な行動の習慣が変わるように生活環境や生活上のルールを変更する、といった方法でしか成功する確率は低くなります。

ダイエットの例はささいな話です。少なくとも、ダイエットでは「痩せる」というゴールが明確なので、今述べたような「生活のルールを具体的に変える」というやり方が適用できます。しかし、私たちが置かれている状態はそうではないんですよね。それは「今のままでは嫌だ、何かになりたい、何かをしたい、しかしそれが何なのかはわからない」という状態なんです。

これは私たち自身が自分の性質や可能性というものを知らず、また外の世界に何が存在するかということをよく知らない、ということです。人間は何も知らない状態でこの世に生まれてくるので、これはある意味で当然のことです。仮にあなたがまったく全然何もわからない状態になった、たとえば船が難破して無人島に流れ着いたとしましょう。しばらくは途方に暮れると思いますが、それが終わったら、生き延びるということのために、その島に何があるのかを知るために、あなたは歩き出すはずです。

そして誰も行動しない(なんで?)

「とにかく行動してみなよ」というのは何もひねったところがないアドバイスなんですけど、これを強調するのはすごく大切なことです。何故かというと、普通の人はやらないからです。そう言われても全然やらないんです。現実は気合いと根性だけではなんともならないし、社会の仕組みや人間の心理について知るべきことはいろいろあるので、本やネットから知識を得るのもいいのですが、結局のところ、これはあなたの決意にかかっています。

世の中には「やれ」という気持ちを後押しするためのコンテンツが数多くありますね。自己啓発本は昔から山ほどありますし、最近であれば動画でいろいろ語っているチャンネルも多いでしょう。これはある種の鎮痛剤というか、栄養ドリンクもしくはカフェインというか、なんとなくそのときだけは勇気が出たような気持ちになりますが、長い目で見てみれば何も変わっていないということも多くあります。

結局、どうすればいいんでしょうね? 自分で考えて、自分で悩んで、自分でやるしかないんですよね。それも時間をかけて。あなたが何もしないなら、いつかその結果を引き受けるのはあなたです。これは別に不安を煽っているわけではないです。煽られてする行動なんていうのは、その人にとって本当のものにはなり得ないので。あなたは動くときが来れば動くでしょうし、動くときが来るまでは動かないでしょう。

うーん、でも、もうちょっと頑張ってみませんか? どうですか? 頑張ったほうがいいことがあると思うんだけどなあ。

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若者がまぶしすぎて気絶しそうになった

インターネットの面白いところは、住んでいる地域も年齢も社会的属性も何もかもが違うのに、魂の形だけは似通っている、という人間を見つけ出せる点にあります。普通に暮らしていたら絶対に出会うことはなかったであろうその人と、話ができるんです。それも、普通に日常で顔を合わせているだけの仲であったらまずしないような、深い話ができることがあります。

私が今、30代という時間を過ごしていて気づいたことがあります。20代のうちって、自分よりひと回り下の世代っていうと高校生とかになって、その辺りの年代ってまだ自分というものが確立していないですよね。ところが30代になると、ひと回り下の世代っていうのは20代になって、これくらいになると、もう既にその人らしい個性や人間性というものがちゃんと出てきています。少し年下に、自分とは違う世代を生きていて、自分にはない魅力を持った人たちが現れ始めるんです。

これは年齢や世代が離れている場合に限らないのですが、誰かと深い関係になれるとき、一致を見ることの多い要素がふたつあります。ひとつは外の世界に関することで、何が好きかということです。同じバンドが大好きだったり、同じ専門分野で仕事をしている同業者の人などは仲良くなりやすいですよね。もうひとつは内側の世界に関することで、簡単に言えば性格です。心の中で何を大切にしているのかということですね。生真面目なほうなのかはっちゃけているのか、社会での成功を重視するのか自分らしい生活を重視するのかといったことがあります。

ただ、外向的な人と内向的な人の間で妙に気の合うコンビができたりすることはよくあるので、単純に一致している量や範囲が多ければいいというわけではないようです。私は個人的に、心の中のコアになる部分が一致していて、枝葉末節はいろいろ異なっていて別々の関心を持っているというケースでいちばん面白い人間関係が生まれるのではないかと思っています。

こうした友達というのは、年が近くても離れていても大変貴重なものなのですが、自分より若い世代の人の中にそうしたものを見つけると、これはなかなか感慨深いものがあります。この人にもこの先いくつもの困難が待っていて、もしかしたら私と同じことに思い悩むのかもしれない。これから楽しいこととか、バカみたいにしんどいこととかがたくさんあって、そこには人生ワンダーランドが広がっていて、最終的には私が知らない、何か別の世界にたどり着く。

すごいね……頑張ってね……という気持ちになります。人間はお互いに相当仲が良かったとしても、人の人生は人の人生なので、そこまで干渉することはできません。見守って、応援することができるだけです。

あの人の人生が、みなさんの人生が、この先、幸多いものでありますように。

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